魚が好きか肉が好きかというのは、輿論(よろん)を二分するような悩ましい問いである。だが、そのどちらも、クールな甲殻類の雄(ゆう)、蟹(かに)を前にすると旗色が悪い。蟹の爽やかな旨味(うまみ)と比べた場合、どんな高級魚も野暮(やぼ)ったく思えるし、A5ランクとかのブランド和牛の味も鈍重に感じられる。蟹酢の発明はノーベル賞に値すると思うが、ただ茹(ゆ)でただけで(生でもOKだが)、ここまで美味(うま)くなる食材が他にあるだろうか。
それでは最上の蟹が何かとなると、ズワイガニ対毛蟹という永遠のライバル対決で議論が沸騰することだろうが、タラバガニ(厳密には蟹ではない)やワタリガニも捨てがたいし、香港や神戸で食べる上海蟹の老酒漬けは絶品である。上海蟹は、正式名をチュウゴクモクズガニといい、旺盛な繁殖力から世界の侵略的外来生物に数えられているが、環境ナショナリストの私でさえ、つい、こいつの侵略なら目をつぶろうかと思ってしまうほどだ。
しかし、ここで一つの疑問が生じる。蟹は、いったいなぜ美味くなるように進化したのだろう。
『ベーリング海の一攫千金(いっかくせんきん)』(ディスカバリーチャンネル)を見ると、男たちが命を賭けて、親の敵のように蟹を乱獲している実態がよくわかる。美味いが故の悲劇だろう。平家蟹が、落ち武者の恨みの形相そっくりな甲羅の模様のために獲(と)られても捕られても漁師に捨てられて、それが有利に働きますます模様が不気味に進化していったというのは都市伝説らしいが、もし蟹類が消しゴムのように不味(まず)ければ、こんなふうに種の存続の危機に直面することはなかったに違いない。彼らが志向するひたすら美味くなる進化は種としての自殺行為としか思えないのだ。美味ければ、たとえ猛毒を持っても、人類の食欲からは逃れられないのは、フグが証明している。もはや蟹には、どこにも逃げ場はないのだ。
だが、ひたすら貪(むさぼ)り食われる運命を甘受するように見えた蟹は、ひそかな反撃を用意していた。プリン体である。プリン体は、我々の体内で針のような結晶の尿酸を作り、痛風を引き起こす。尿酸値が高いためビールとも訣別(けつべつ)した私にとって、蟹は見果てぬ夢となってしまった。
実は、蟹よりもプリン体を多く含む食物は数多く存在するし、蟹の脚の身そのものにはさほどプリン体はない。しかし、蟹の鋏(はさみ)や脚を賞味した後で、蟹味噌(みそ)をあきらめられる人間が、はたしてこの世に存在するだろうか。人生最後の食事は何がいいかという問いに私はこう答える。小惑星が地球に衝突してすべてが終わるとしたら、十杯の蟹を用意し、朝から晩まで貪り食って生涯を終えたい。きっと静かな一日になることだろう。=朝日新聞2018年04月21日掲載
編集部一押し!
-
売れてる本 森バジル「探偵小石は恋しない」 密度高く詰め込む「面白さ」 吉田大助
-
-
ひもとく 武田砂鉄が2025年ベストセラーを振り返る 流行はシンプルで低体温 武田砂鉄
-
-
鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第33回) さらに進んだ翻訳、日本文学は世界文学へ 鴻巣友季子
-
韓国文学 「増補新版 女ふたり、暮らしています。」「老後ひとり、暮らしています。」人気エッセイ著者が語る、最高の母娘関係 安仁周
-
谷原書店 【谷原店長のオススメ】斉木久美子「かげきしょうじょ!!」 「演じること」を人生に選んだ者たちの人間ドラマを掘り下げる 谷原章介
-
インタビュー 小川公代さん「ゆっくり歩く」インタビュー 7年間の母の介護、ケアの実践は「書かずにはいられなかった」 樺山美夏
-
トピック 【プレゼント】第68回群像新人文学賞受賞! 綾木朱美さんのデビュー作「アザミ」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】大迫力のアクション×国際謀略エンターテインメント! 砂川文次さん「ブレイクダウン」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】柴崎友香さん話題作「帰れない探偵」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
インタビュー 今村翔吾さん×山崎怜奈さんのラジオ番組「言って聞かせて」 「DX格差」の松田雄馬さんと、AIと小説の未来を深掘り PR by 三省堂
-
イベント 戦後80年『スガモプリズン――占領下の「異空間」』 刊行記念トークイベント「誰が、どうやって、戦争の責任をとったのか?――スガモの跡地で考える」8/25開催 PR by 岩波書店
-
インタビュー 「無気力探偵」楠谷佑さん×若林踏さんミステリ小説対談 こだわりは「犯人を絞り込むロジック」 PR by マイナビ出版