鍋の底のグラニュー糖が茶色くなってきたら、匂いに集中する。かすかに焦げた匂いがした瞬間に水を注いで火を止める。そのタイミングが、わが家のカラメルの味を決める。
プリンの底に敷くカラメルが苦くていやだと子供たちがいったのは、十何年も前のことだ。それで、ほとんど焦がさない薄茶色のカラメルシロップでプリンをつくった。幼いうちはこれでいいかな。そう思ってきたけれど、いつまでたってもあの苦みがいやだという。プリンのやさしい甘さを、カラメルの苦みこそが引き立てるのに。
子供たちの成長に伴って、少しずつカラメルの焦がしを止めるタイミングを遅らせてきた。あっというまに色づいていくカラメルを目で確認しつつ、決め手は匂いだ。焦げはじめる匂いで、今だ、とわかる。これでずっと成功してきた。
ところが、先日初めてうまくいかなかった。少し焦がしすぎた。心当たりは、ひとつだけだ。焦げる匂いが、よくわからなかった。私の鼻が利かなかったのだった。
いつもより苦いカラメルのプリンを食べたとき、動揺した。心の準備ができていなかった。考えてみれば、近くのものが見えにくくなっている。心なしか、高い声が聞き取りにくくなったような気もする。目や耳が衰える実感と諦念(ていねん)はあったけれど、嗅覚(きゅうかく)が衰えることには思いが至らなかった。
もともと、嗅覚だけが取り柄(え)だったのだ。幼い頃から、家族の誰もわからないような匂いを当てた。何で出汁(だし)を取ったか、すぐに嗅ぎ分けたし、匂いの記憶も鮮やかだった。それで何かいいことがあったとか、役に立ったとか、そういうわけではない。ただ、鼻がいいことが私のひそかな自慢だった。
でも、がっかりし続けるわけにもいかない。嗅覚を頼りにしていた部分を、ほかのもので補っていこうと思う。プリンであれば、カラメルの焦げていく色に目を凝らす。もしくは、焦げはじめてからの秒数を計ってもいい。そして大事なのは、苦みの強いカラメルのプリンも意外とおいしいね、と一緒に笑ってくれる家族の寛容さだ。
何かが衰えたとしても、それで不しあわせなわけではない。少しさびしいけれど、しかたがないなと思えたらいい。能力が衰えた分、きっと育っているものもあるはずなのだ。
そんなことを考えながら外へ出ると、高い空にちぎれた白い雲が浮かんでいた。ああ、秋だ。胸いっぱい空気を吸い込んだら、秋の匂いがした。乾いた木の匂い、どこかで落ち葉焚(た)きする匂い。もうすぐ金木犀(きんもくせい)の華やかな香りも風に混じるだろう。特別にすぐれた嗅覚を持たなくても、健やかな秋の匂いを楽しむことはできるのだ。=朝日新聞2017年09月30日掲載
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