「姿のいい人でしょう」と、池内紀さんは本の帯にあるトーマス・マンの写真を指さした。端正で知的、威厳のある紳士。「こんな人の本を、小さい本でも1冊書きたいなと思ったんです」
20世紀を代表するドイツの作家マン(1875〜1955)は、ナチスに批判的だったため帰国を差し止められ、亡命。主に米国を拠点に講演やラジオでナチス打倒を訴え続け、かつ小説を書いた。その間の日記を邦訳した全10巻、1万ページに及ぶ『トーマス・マン日記』(紀伊国屋書店)の刊行に際し、PR誌に連載した文章がこの本にまとまったのを喜ぶ。
もともと、カフカを始めユダヤ系の作家に関心が深く、マンには縁がないと思っていた。ところが初心者のように勉強して日記に接するうち、人物への敬愛の念がわいてきたという。
日記はほぼ毎日、目下の小説の進み具合から日常の出来事、新聞数紙などから得る情報、世界情勢の予測と続く。長大である。
「ねらいは、マンの目から見たナチス・ドイツ。後世の我々は結果を知っていますが、マンと同じ地点で見ようとしました」。池内さんは、実はナチス時代のドイツについて書く、別の仕事もしていて、それが役立ったという。
レマルクやツヴァイク、ブレヒトら亡命同胞の動静、日本の二・二六事件、ドイツ軍のパリ入城や国内での反ナチ運動……。いつ終わるともしれない亡命生活にあって情報を真に受けず、自ら分析、論評する。その強い精神力に池内さんは「欧州の底力」を見る。
また日記の中には、カフカに魅了されるマンの姿もある。「まだ無名の頃のカフカをあれだけ熱心に読んだ現役の作家はいない」そうだ。「自分はもう古いのではないかと、予感めいたものがあったかもしれませんね」
ドイツの降伏でナチスとの闘いは終わったが、長男クラウスの自殺、マッカーシズムの米国からの再亡命、迫り来る老い、と、日記は続く。写真も豊富なこの本を通じて、「偉大な文豪」の表情が少し、親しみを増すようである。
(文・大上朝美 写真・工藤隆太郎)=朝日新聞2017年9月10日掲載
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