作家の宮下奈都さんを迎えたトークイベントが4月10日、東京・築地の朝日新聞東京本社読者ホールであった。ピアノの調律に魅せられた青年の成長を描いた『羊と鋼の森』が映画化され、6月8日に公開を控える。執筆の経緯や創作に込めた思い、作家になったきっかけなどについて語った。聞き手は吉村千彰編集委員。
ひらめいた「ピアノの中は森なんだ」
「静かな雨」が文学界新人賞の佳作に入選した2004年にさかのぼって、話が始まった。受賞後「生まれて初めて受けた」取材が吉村記者のインタビューで、生後まもなかった娘を実母に預けて出向いた。取材は、1時間の予定が3時間に。「同じ学年で互いにロック好きということもあって話が弾んで。授乳のため、急いで帰ったんです」
「この子が幸運を運んできてくれたのかもしれない」と話す。「静かな雨」を書こうと思い立ったとき、おなかの中にいた。すでに長男と次男がいて、「次もきっと男の子だ、てんやわんやになるなって思ったとき、不意に小説を書きたくなったんです。書いてみるとものすごく楽しかった」。
周囲にも内緒の執筆だったが、この作品「静かな雨」で文芸誌デビューを飾った。以来、人々の日常を細やかに描き出す作品で読者の支持を集めてきた。「特別な事件はだれかが書いてくれる。それはおまかせして、日の当たらないところを」と語る。「作り話なんだけど、何もないところからではなくて、日々暮らしていて感じたこと考えたことを書きたい」
15年に刊行された『羊と鋼の森』も、生活のひとこまから生まれた。40年使ってきたピアノを子どものために調律したとき、古いつきあいの調律師の言葉が始まりだった。「まだまだ大丈夫。いい羊がいますからね」。鋼の弦をたたくハンマーのフェルトを指した言い回しに、「ピアノの中は森なんだ」とひらめいた。
その着想が実を結んだのは、13年に家族で山村留学した北海道・トムラウシ。30キロ先までスーパーもない環境だったが、木々の間を散歩していると、「すべてがあるって感じた」。美しい景色の中で、作品が出来ていった。
主人公・外村は、高校生のときピアノ調律師の板鳥と出会い、その仕事に胸を打たれる。彼の勤める楽器店で働き、調律への考え方の違う先輩たちや演奏者とふれあっていく。「外村君はこわいものがなかったんですよね、きっと。何も持ってないと思ってるから、一歩踏み出しやすかった」。宮下さんにとっては、それが小説だった。「外村君と似ているのかも」
映画では外村を山崎賢人さんが演じた。この日試写を見たばかりという宮下さんは「かっこいい、キラキラしたイメージだった山崎さんが、普通の山の中の高校生に見えるんです。息子の同級生かというくらい」と絶賛。
映画の撮影現場も訪ねたという。「向こうからすごく腕のいい調律師が歩いてきたと思ったんです。(実技)指導の方かな、と」。実は、板鳥役の三浦友和さんだった。他の出演者にも感心しきり。「プロの俳優ってすごいですね」と興奮気味に語った。
熱心なファンからの質問も相次いだ。最後にマイクを持ったのは、調律師だという女性。「地味な仕事に光を与えてくれた」という感謝の言葉に続き、「調律の細かな部分まで書いてくださって、勉強は大変じゃなかったですか」と問うと、宮下さんははにかみながら「本もいっぱい買って勉強したんですが、もう忘れちゃいました」。笑いに包まれる中、付け加えた。「頭だけじゃなくきっちり体で覚える調律師は本当にすごい仕事だと思います」(滝沢文那)=朝日新聞2018年5月26日掲載