「漱石の家計簿 お金で読み解く生活と作品」書評 市場原理への嫌悪と偶然の成功
ISBN: 9784866240138
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サイズ: 20cm/335p
漱石の家計簿 お金で読み解く生活と作品 [著]山本芳明
近代日本の文学市場はいかに成り立っていたか。夏目漱石を通して印税の配分やその生活ぶり、そして作品での金銭の描き方を分析する。著者の視点は「漱石はいくら稼いでいたのだろうか」という点にあり、一見俗っぽくみえながら、その実、本質に迫っていく。
たとえば、漱石の大正3年の家計簿を示し、その支出の多さから、贅沢な生活をしていたと指摘する。朝日新聞社の月給のほかに、出版社の印税収入がある。
最も部数の多い新潮社の『坊っちやん』は定価が30銭で、大正3年と4年で8900部売れた。印税率30%として801円だ。他の出版社からも次々と本が出され、大正4年から5年にかけての印税収入は4千円近くあった可能性がある。大正5年、第一銀行の大卒者は初任給が40円という時代に、相当な額だ。それでも夏目家の支出は賄いきれず、鏡子夫人が株を購入して資産運用を始めていたのでは、と分析するのだ。
漱石は経済学に通じ、マルクスの議論も知っていたようだ。その上で市場原理を批判し、嫌悪するのだが、そこには、良質のものは価格が高くても尊ばれるべきだとの信念がある。作品にもそれが反映していて、「金」が道徳的な労力と引き換えになり、「勝手次第に精神界が攪乱されて仕舞ふ」との自身の考えが込められていると、著者は主張する。
これも重大なことなのだが、漱石は市場原理を批判しつつ、芸術家などが「自己本位」で活動しているのは、経済的不安を覚悟しているからともいい、自分の成功は偶然の産物という言い方もしている。漱石亡き後の鏡子夫人の贅沢な生活は「猫」ブームが起こったから、さらに漱石ブームと続いたためで、いかに作品が売れたかも表で示している。夏目家が提起した著作権の継承問題は、その後の作家の権益をめぐる問題の出発点といえる。
著者の目配りに新しい文学論の誕生が感じられる。
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やまもと・よしあき 1955年生まれ。学習院大教授(日本近代文学)。著書に『カネと文学』など。