「細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ女性」書評 キリシタンの信念とは何か
ISBN: 9784623056781
発売⽇:
サイズ: 20cm/231,8p
細川ガラシャ―散りぬべき時知りてこそ [著]田端泰子
戦国時代の悲運の女性キリシタン、細川ガラシャ。本名、明智玉子(たまこ)(1563〜1600)の生涯を、女性史の視点、キリシタン改宗の過程と意義を通して明らかにした書である。
将軍足利義昭に仕えた明智光秀と細川藤孝は、後に織田信長の家臣となり重用される。大名同士、大名と家臣、家臣間の紐帯(ちゅうたい)として、兄弟姉妹・子女の婚姻は、当時、重要な役割を果たした。1574年、信長は、光秀と藤孝に縁家となるよう命じる。京都と周辺の統治、丹波・丹後の平定のため、両家を結束させるのが目的と考えられる。光秀の娘玉子は、78年に京都の青竜寺城(現、長岡京市)に輿入(こしい)れし、藤孝の嫡男忠興に嫁して三男三女をもうけた。
細川家嫡男の正室としての玉子の境遇は、1582年6月に起きた本能寺の変により一変する。玉子は、逆賊光秀の娘として離縁され、丹波の山中に幽閉された。84年に赦(ゆる)されて復縁し大坂城下の細川家屋敷に移ったが、87年、忠興の九州遠征中に玉子は洗礼を受け、キリシタンとなる。洗礼名はGratia=ガラシャ(神の恩恵)。改宗後の同年6月、豊臣秀吉により伴天連(ばてれん)追放令が発せられ、玉子の改宗は秘された。著者は、本能寺の変以後の玉子の生活と精神状態から改宗への道筋、キリシタンとしての信念とは何かを追う。
玉子の最期は壮絶だった。1600年、徳川家康が上杉征討に関東下向し、忠興も従うが、石田三成は家康に反し、家康方の武将が大坂に残した妻子を人質として大坂城に集めようとした。玉子は断固、登城を拒み、自害して果てたのだ。その最期は武将の妻の「義死」として感嘆された。1698年には、信仰を守り抜いた玉子がモデルのオペラ「気丈な貴婦人」が、ウィーンで上演されたという。
義死なのか、殉教なのか、考えさせられるテーマである。辞世の歌と伝わる「散りぬへき 時しりてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」などの和歌、十余通の書状も残されている。玉子の感性や精神世界をもっと知りたくなる。
*
ミネルヴァ書房・2730円/たばた・やすこ 41年生まれ。京都橘大学学長(日本中世史・日本女性史)。