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子どもたちのための101年の生涯 「没後10年 石井桃子展─本を読むよろこび─」

文:志賀佳織
文:志賀佳織

 昭和初期から101歳で亡くなる2008年まで、編集者として、翻訳家として、そして作家として活躍し、日本の児童文学の世界に多大な功績を残した石井桃子。没後10年にあたる今年、改めてその仕事の軌跡や人物像に迫る回顧展が7月21日から、神奈川県横浜市の神奈川近代文学館で開催される。翻訳の代表作『クマのプーさん』や創作『ノンちゃん雲に乗る』など、幼い頃、誰もが一度は親しんだ、懐かしい作品の世界を改めて感じられるとともに、元祖「モガ」であった石井の横顔にも触れられるという本展。きっと現代に生きる私たちにも共感できるところがたくさんあって、興味深いに違いない。

 『クマのプーさん』『ピーターラビットのおはなし』『ちいさいおうち』『ちいさなうさこちゃん』・・・・・・。私たちが、今、当たり前のように手にしているこうした外国の優れた児童文学を発掘して翻訳し、紹介してきたのが石井桃子だ。それだけではない。1951年に発売されてベストセラーとなり映画化もされた『ノンちゃん雲に乗る』のほか、『山のトムさん』『三月ひなのつき』などを創作した作家でもある。ほかにも、58年には、東京・荻窪の自宅を子どもたちに開放し「かつら文庫」をつくるなど、2008年に亡くなるまで、文字通り、その人生は児童文学の発展にささげられたものだった。

 没後10年にあたる今年、その大きな功績を改めて振り返るとともに、これまであまり知られていなかった、ひとりの自立した女性としての彼女の人物像に迫る企画展が、7月21日から神奈川近代文学館で開催される。展示課長の高橋祐子さんはこう話す。

 「今、残念ながら子どもたちがだんだん本を読まなくなってしまっています。ひたすら子どもたちによい本を届けようとしてきた石井さんの101年の生涯を振り返ることで、彼女が手がけた素晴らしい作品の数々に触れる機会を、もう一度、今の子どもたちに持ってもらえたらいいなというのが、今回の展示を考えたひとつの目的です。もうひとつは、石井さんはいわゆる昭和初期の『モガ』で、ジャーナリストの尾崎真理子さんが書かれた評伝『ひみつの王国』にもあるとおり、当時の女性にしては珍しく、早くから仕事を持って自立し、先駆的な女性像を体現していたと思います。ですので、その側面もアピールしたい。きっと今の大人の女性たち、あるいは石井さんより少し年下だけれども、同じような時代を生きてきた80代、90代の方たちにも共感していただけるのではないかなと思っています」

1924(大正13)年頃。写真提供:東京子ども図書館
1924(大正13)年頃。写真提供:東京子ども図書館

 石井は1907年、埼玉県北足立郡浦和町(現・さいたま市)に、兄1人、姉4人の末っ子として生まれた。生家は旧中山道沿いにあり、祖父は金物店「釜屋」を営む地元の名士で、父は浦和商業銀行の支配人だった。祖父の代から進取の気性に富む家で、姉たちも学業で非常に優秀な成績を修めていたというが、当時の慣習で上の学校には進学せずに4人とも年頃になると嫁いでいった。しかし、その後の姉たちの結婚生活は必ずしも幸福とは言えず、末っ子の石井は両親に願い出て、埼玉県立浦和高等女学校(現・浦和第一女子高等学校)卒業後、日本女子大学校英文学部に進学した。

 20歳ぐらいの頃から、海外の児童図書の良書やブックリストなどを、ペンフレンドを通じて教えてもらい、自分なりに研究をする熱心な学生だったという。その傍ら、文藝春秋社で菊池寛のもと、外国の雑誌や小説を読んであらすじをまとめるアルバイトを始める。そして、これがきっかけとなり、編集、翻訳、創作の道に足を踏み入れていくことになる。永井龍男、川端康成、横光利一、井伏鱒二など錚々たる作家たちと交流する機会を得るとともに、菊池の紹介で犬養毅(元首相)の長男・健と知り合い、犬養邸へ書庫整理に行き、犬養家とも親しくなった。

 今回は、石井の生い立ちから生涯を追いながら、編年の形で時々の著作を見ていくことができる展示になっているという。

 「今までの絵本展、童話展というと、作品の世界と作者の人生とを別々に構成することも多かったのですが、石井さんの場合は、『クマのプーさん』にしても、『ノンちゃん雲に乗る』にしても、人生と分かちがたく結びついて生まれているんですね。その意味もあって、今回は人生をたどる中、作品をご紹介していくスタイルになっています」

『クマのプーさん』原書。地図に「百ちょ森」の日本語のネームを書き入れた見返し。
A.A.Milne,Winnie-the-Pooh,1930(10th Edition),Methuen&Co.Ltd. 写真提供:東京子ども図書館
『クマのプーさん』原書。地図に「百ちょ森」の日本語のネームを書き入れた見返し。 A.A.Milne,Winnie-the-Pooh,1930(10th Edition),Methuen&Co.Ltd. 写真提供:東京子ども図書館

 『プーさん』との出合いは、33年のクリスマス・イブ、犬養健邸に招かれたときのことだった。クリスマスツリーの下におかれた『プー横丁にたった家』の原書を手に取った石井は、子どもたちにせがまれて読み聞かせるうちに、自身が魅入られてしまう。やがて犬養家の子どもたち以外にも、病身の親友が熱心なファンとなり、生きている間にどうしても読みたいと願ったことに背中を押される形で、石井はこれを本格的に翻訳することに取り組み始めたのだった。

『ノンちゃん雲に乗る』(1947年 大地書房)神奈川近代文学館蔵
『ノンちゃん雲に乗る』(1947年 大地書房)神奈川近代文学館蔵

 また『ノンちゃん雲に乗る』は、戦時中、徴兵された友達を慰めるために書かれた。友達は兵営で、石井の送る原稿を夜中に隠れて読んでは、「読んでいる時だけ人間になっている」と言ったという。それが戦後、紆余曲折を経て作品として出版されるわけだが、神奈川近代文学館には、その経緯を語る手紙が館蔵の資料としてあるそうで、本展ではそれも展示される。

 それにしても驚かされるのは、石井の生き方が、人生のその時期、その時期によってまったく異なっていることだ。言い換えれば、非常にひきだしの多い、多才な人だということでもある。あるときは編集者として、「日本少国民文庫」(新潮社)や「岩波少年文庫」(岩波書店)の編集に携わったかと思えば、終戦直後から5年間は、宮城県栗原郡鶯沢村(現・栗原市)で友人とともに本格的に農業に従事していたりもする。『ノンちゃん雲に乗る』の印税は、農場の運営に使われたといわれている。さらに戦後は、ロックフェラー財団の奨学金を受けアメリカに留学して全米各地の図書館を視察し、また帰国後は自宅を開放して子どもたちのための図書館「かつら文庫」を開いた。

宮城県・鶯沢村で(撮影・安田勝彦)写真提供:東京子ども図書館
宮城県・鶯沢村で(撮影・安田勝彦)写真提供:東京子ども図書館

 「その段階段階で取り組む仕事が変わるというか、ポンと鮮やかに次のところへ飛躍していますよね(笑)。ただその中にも、常に石井さんのひとつの思いが貫かれていたのではないかと思うんです。それが良い本、良い文化を世の中に届けたいということだったのではないでしょうか。そこは生涯を通じて変わらなかったところですね。『子どものための図書館をやりたい』ということと『農場を経営したい』というのは、かなり若い頃から真剣に2本立てで考えていた将来の目標でもあったようです。その意味では、やりたいことをすべてひとつひとつ叶えていった人生でもあったのではないかと思います」

 「勉強好き」であったと周囲の関係者みんなが評する。翻訳のための原書にもものすごい書き込みがあり、1回刊行されたあとも、新しい版が出されるたびに推敲が繰り返されたという。また、自分の好きな外国の作家たちについても、評伝を読み、背景を一から調べて勉強ノートを作り、ときには自らその作品の舞台に出かけることもあった。

 「その一方で、一回書いた原稿に執着は乏しく、手を入れるたびに、前のものはあっさり処分してしまっていたんだそうです。ですから意外と自筆の原稿は残っていないんですね。若い頃の愛称は『タンタン』。淡々としている、というところからそう呼ばれたそうです」

 良い文学、良い文化を子どもたちに届けたい。その一心のみで人生を駆け抜けた石井の姿が目に浮かぶようだ。石井が、生前大事にしていた言葉に次のものがあるという。

おとなになってからのあなたを支えてくれるのは、子ども時代のあなたです

 今、自分は何に支えられているのだろう、そんなことを思いながら自らの幼い日々を振り返って楽しみたい展示だ。