本書は、よくあるように見えてこれまでなかった本だ。なぜなら、「著名人のうつ病体験記」という点ではそれほどめずらしくはないが、発病から回復に至るまでをここまで綿密に、しかもわかりやすく当事者が語った手記はまれだからだ。
とくにうつ病の始まりについては、診察室で尋ねても「よく覚えていない」という答えが返ってくることが多い。ところが著者は、うつ病が始まった日付までを覚えている。ある日の朝食後、「まったく疲れが取れていない」と感じたという。それから「体の中で何かが起きているようなムズムズした感じ」「思考が全然まとまらず」「眠れなくなり、不安が強くなって」いき、ついに頭の中に「死のイメージが駆け巡る」ようになっていく。著者の場合、幸いなことに実兄が精神科医だ。すぐにやって来て受診を勧めてくれ、異変を自覚した日から約1カ月後には大学病院の精神病棟に入院することになる。
入院から2週間もたつと「わずかであるが元気」になってきて順調に退院の日を迎えるが、その後がまたしんどい。著者は言わずと知れた名棋士であり、カムバックするのは厳しい勝負の世界だからだ。詰将棋の問題集を手に取ってみるが、以前なら瞬時にできた問題が全然解けないのだ。「死ぬより辛(つら)かった」と絶望しながらも、うつ病になって以来、「これほどまでに集中したのははじめて」とかすかな希望も感じる。経験者にしか書けないリアルさ。
著者は何度も繰り返す。「うつ病は脳の病気」。ストレスや性格も関係はしているが、それでもやはり脳という身体の一部の故障だ。とはいえ、プロ棋士仲間と対局できるようになるまでを描いた後半では、回復には家族や仲間のサポートが必須だというのもよくわかる。
ウェットになりすぎず、ときにユーモアも交えた文体も読み手にはありがたい。これぞまさに“心の良書”。長く読まれるに違いない。
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文芸春秋・1350円=7刷2万8千部。7月刊行。うつ病で休職中の人から「内容が心にしみた。人生の谷底から自分もはい上がりたいと思った」と感想が寄せられているという。=朝日新聞2018年9月29日掲載
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