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まじめな領域で、ふまじめを起動 大佛次郎論壇賞受賞・小松理虔さん寄稿

 福島、震災、原発事故、汚染、復興などという言葉を並べると、読者の皆さんはどう感じるだろうか。興味が湧くだろうか。福島に行きたくなるだろうか。3月くらいは仕方ないかなと思うだろうか。それとも、もうその話はたくさんだと感じるだろうか。

 東日本大震災から今年で8年になる。この8年の間に、地震や台風、豪雨など別の災害に見舞われた地域も多い。東日本大震災は、多くの人たちにとって、もう自分の身近にあるものではなくなりつつあるのではないだろうか。

 拙著『新復興論』は、そのような現在において、いま一度、福島への関心を呼び起こすにはどうしたら良いのか、多様な人たちと復興を考えていくにはどうすればいいのか、その基本姿勢、態度のようなものを考えた本である。

 この8年、ただでさえ記憶の風化が叫ばれているというのに、福島はすっかり「語りにくい」場所になってしまったと感じている。震災から時間が経過し、福島について話す機会そのものが減っているということもあるだろう。福島を語るうえで「放射線防護」の知識が求められているのも、語りにくさを助長しているのかもしれない。

 一方、福島に関心のある人たちのなかでは、食べる/食べない、戻る/戻らない、安全/危険、支持する/支持しないといった二項対立化した議論が続いてきた。過激な論争は対話の余白を消し去り、お互いを、より対話不可能な状況に押しやってしまったようにも思える。議論が高度化し、まじめさの度合いが増すたび、議論は内に向かい強固に陣営化され、その外側には無関心を広げてしまう。そんな状況こそ「“記憶の風化”と“風評の固定”」なのだ。

 その息苦しさのなかに私もいた。私もかつては「いわきで水産加工に関わる人間」としての当事者性を盾に、異なる意見を封殺しようとしたことがあった。本書では、私がかまぼこメーカーに勤めていた頃の実践だけでなく、当時の煩悶(はんもん)や葛藤なども包み隠さず書いたつもりだ。伝えたいと思うほど自分の当事者性を強調して発言してしまう。しかし、そうするほど外の人たち(震災を実際には体験していないという人たち)を切り捨ててしまう。

 次第に議論は狭いものになり、いつの間にか自分がどちらの陣営に属しているかを宣言するための踏み絵を踏まされることが増えた。私は、そこから外に飛び出すにはどうすればいいのかを考えるようになった。

誰もが当事者 ふわりと対峙

 そのために考えるべきは「震災の当事者とはだれか」という問いである。本書での結論を示しておくならば、震災に真の当事者などいない、つまり皆が当事者であるということだ。

 福島の漁業の再生があなたの食卓につながっているように、復興の地域づくりが全国の地方創生のヒントになり得るのと同じように、廃炉の問題が100年後の未来の人たちに押し付けざるを得ないのと同じように、福島で起きている議論は、常に空間的・時間的な「外部」につながっている。福島を考えることは、あなたの今を、そして地域の過去や未来を考えることにつながるのだ。当事者を限定してはいけない。

 当事者と非当事者の間にはグラデーションがある。リスク判断にもまた無数の濃淡がある。人々の決断も考えも、そこに至るまでのプロセスもバラバラで人によって違う。私は、その境界線を、食や観光や文化芸術によって曖昧(あいまい)にしてしまおうと考えている。これまで蓄積されたデータや事実を大前提としつつ、観光やアートを起動したい。それらが皆「ふまじめな思想」を生み出してくれるものだからだ。人は、福島の復興や風評払拭(ふっしょく)をするために福島を訪れるのではない。福島にうまいものがあり、面白い人がいて、楽しい物事があるからこそやってくる。復興とは、その結果としてもたらされるものであるはずだ。

 まじめな領域でふまじめを起動する。これはなにも震災復興に限った話ではない。医療や福祉、障害、さらには過疎化や地域づくりなどにも言えることだろう。厳しい問題が目の前にあるからこそ、あえてふまじめに徹することで関わってくれる人を増やし、社会全体で考える思考回路を作りながら未来に手渡す。私は本書で「福島の復興」を書いた。けれども、読む人が読めば別の復興の話として読めるかもしれない。状況は深刻である。だからこそしかめっ面せずに、酒や肴(さかな)を片手に、ふわりとした観光客のように、ふまじめに対峙(たいじ)していこうではないか。(寄稿)=朝日新聞2019年1月23日掲載