「さかしま」(J・K・ユイスマンス、澁澤龍彦訳、河出文庫)
自然は人為的に創造できる。人里離れた場所で見られる貴い星空は、プラネタリウムで投映される。雨上がりに現れる気高い虹は、庭にあるホースで水を撒くことで再現できる。柔らかで気品ある雪は人工降雪機でゲレンデに降らせることもできる。このように、偉大な自然は人為的に模倣することができる。今や人工物は、私達の生活に深く入り込んでいる。『さかしま』が発表された1884年、すでに自然は人工で模倣できた。あれから100年以上が経ち、人工物は私達の生活に欠かせないものとなった。そんな今だからこそ、自然と人工の美の魅力とは何なのかを考えてほしい。
本書は人工で楽園をつくり上げた男の物語だ。主人公は、この世が無頼漢と低能児で成り立っていると思うほど「人類に対する侮蔑」を感じていた。そこで、彼は汚れた俗世間から縁を切り、孤独な生活を送ろうと思い立つ。閑居の地として選んだのはパリ郊外の人里離れた場所。交通の便は悪く、俗世間が侵入することがない。彼にとって、孤独が保証された理想的な場所だった。そして、そこに珍奇な住居を建て、隠遁する。
その「隠遁所」の内装は色調や光などを精密に組み合わせ、彼が快楽を得られるように造られる。汽船の船室に似せられた食堂では大海を航海している感覚になり、あるときは造花のような食肉植物に魅了され、またあるときは花々の匂いが合成された香水に包まれる。このように、彼は自身の快楽のために人工で内装をつくった。
なぜ彼は人工で楽園をつくったのだろうか。彼に言わせれば、自然は「風景と気候との厭うべき単調さ」があり、「退屈」で「月並」のもの。すでに廃れているものだ。第一、自然は模倣することができる。すべて人工で創造でき、真似できないものはない。そんなものよりも、複雑に組み合わされた人工の方が魅力を感じる。自然を真似た人工は、彼に「本物と変らぬ幻想の悦楽」を与えた。
けれども、私は偉大な自然の中にも美を感じる。爽快な渓谷、豪快な滝、澄んだ空気。そこには何事も受け入れる包容力と精気がある。模倣された自然には雄大さがない。それは人の手では表現できない。自然の美は癒しと活力を与えてくれる。そういう人工にない力があるから、自然の美にも惹かれる。
一方で、彼は大自然よりも複雑につくられた人工の美を欲し、そこから満ち足りた感覚を得た。本物の花より形や香りなどを精巧につくった造花。それに飽きると、次は食肉植物、造花のような奇怪な自然物だ。彼は限りなく本物に近い人工物に、より芸術的な美を感じた。そして、贋物だからこそ感じられる「本物と変らぬ幻想の悦楽」で精神を満たし、人工で楽園をつくりあげた。
彼は綺麗で美しい自然の美よりも「幻想の快楽」を与える人工の美を取った。けれども、私はどちらかを選択するのは難しい。あなたはどちらに魅力を感じるだろうか。=「週刊読書人」2018年11月23日掲載
『マノン・レスコー』(アベ・プレヴォ、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫)
時は18世紀フランス、ドーバー海峡に面した港町カレ。語り手は、シュヴァリエ(騎士)の称号をもつデ・グリュとの再会をはたす。だがどうも様子がおかしい。ふさいだ顔で力なく語りはじめた青年の傍らで、語り手は事のテン末を書きしるす。恋の魔力で人生を棒にふった恋人たちの哀話を。「ファム・ファタル」文学の草分けとして知られる、アベ・プレヴォの『マノン・レスコー』は静かに始まる。
だが件の女性はそこにはいない。何らかの事情が二人を遠ざけている。〈不在の人物を語る〉一人称小説の形態は、不幸な結末を予見させ、「この物語ほど正確かつ忠実なものはほかにない」と語り手はその「語り」の確かさを担保する。となるともう大変だ。善良な読者は青年の境遇を憐れみながら頁をくり、感涙にむせびながら本を閉じる。ここに一つの罠がある。この作品に漂う、えも言われぬ生々しさとは一体なにか。その鍵はマノンの性格にある。
「この不思議な女の性格につくづく感心させられる」ことになる、G・Mの息子との不貞の場面に目を向けよう。恋人の度重なる裏切りに、デ・グリュは我慢の限界に達していた。それもそのはず、これが三度目の不貞であったからだ。怒りをうちにとどめ、平静さを装いながら、問題の部屋に乗り込むデ・グリュ。だが、またしても男は裏切られることになる。部屋にいたのは「いつもと変わらないやさしい」マノンであったのだ。
瞬間的な心境の変化はマノンの素直な反応に凝縮される。「彼女は(…)かすかな驚きを示しただけでした」。両者の気持ちのすれ違いは、この戸惑いによって雄弁に語られる。たたみかける彼女の言葉は読者の度肝を抜く。「驚いたわ、あなたは何て無鉄砲なの!」あろうことか、デ・グリュの正義は逆に断罪された。悪びれもせず、この期に及んでも飄々としている女を前に、ただ当惑するしかない。だが、程なくして、この「呑気さ」の驚くべき効果を我々は目にする。再会の喜びに埋もれていたデ・グリュの怒りが、この反応によって膨れあがり、噴出したのだ。
「わたしを非難しながらも、同情せずにはいられないでしょう」読者に語りかけるようなデ・グリュの言葉に、この作品の一つのからくりを見る。これはデ・グリュの物語である。裏をかえせば、どれだけ状況がマノンの後押しをしても、彼女に同情することは許されない。行動の善悪、原因と結果の因果などは、この物語においてさほど意味をなさない。青年の過ちを咎めながらも、その語りの熱っぽさに惹きつけられていく、そんな一人称の魔術に酔うことができるのだ。
興奮と平静を忙しなく行き来し、どこか捉えどころのないデ・グリュに比べて、マノンの一貫した「呑気さ」は不気味に感じられる。だが、そんな彼女の存在が結果的に生々しいまでのリアリスムを影で支えている。「涙ながらに詫びるかわいそうなマノン」は件の場面にふさわしくなかった、ただそれだけなのである。
自然で飾らないものは、人を惹きつける。デ・グリュの「語り」の熱量は、今なお、読者の心を揺さぶり続ける。=「週刊読書人」2018年7月20日掲載
『悲しみよこんにちは』(フランソワーズ・サガン、河野万里子訳、新潮文庫)
不倫報道は今に始まったことではないが、近頃の報道数の多さには目を見張るものがある。
もはや不倫に男女の差はない。いつスクープされてもおかしくない芸能人や政治家でさえこの有様なのだから、一般人を含めたらどれほどの不義が交わされていることだろう。不倫はもはや、人の性と言ってしまってもいいかもしれない。
では、どうして人は不倫をしてしまうのだろうか。理由はそれぞれであろうが、それについて興味深い一例を示してくれる小説がある。
今ではフランスの三大女流作家の一人として数えられるサガンが十八歳の時に書いた処女作『悲しみよ こんにちは』。登場人物ひとりひとりの心情が繊細に表現されている作品だ。
主人公である十七歳の少女セシルは幼い頃に母を亡くしており、プレイボーイな父レイモン、そしてその愛人のエルザとともに一夏のヴァカンスに訪れる。しかしそこに母の旧友であり、美しく聡明な女性アンヌが現れたことにより、レイモンの気持ちは徐々に揺れ動いていく。その後、エルザと破局に至ったレイモンは、老齢に差し掛かっていることもあり、アンヌとの結婚を決意するが、快楽的な人生を否定し、生活に規範をもたらそうとする彼女に反発を覚えたセシルは、レイモンが再びエルザと浮気するように仕向け、その企みは成功するものの、そのことが原因である悲劇が引き起こされる。
といった筋書きである。
この小説は素直な読みをするならば、少女セシルの成長物語として捉えることができる。これまで快楽的に生きてきたセシルが、初めて規範というものに触れ、理知的な大人の女性へと変化する可能性の中で揺れ動く物語。
だが今回、注目したいのは父レイモンの心情である。彼は何故、婚約者がいながら浮気に至ったのか。元々、彼は半年ごとに愛人を変えるようなプレイボーイな性分だったが、それだけでは終わらせられない巧みな葛藤が、この作品では描かれている。
そもそも彼は老いによる「枯渇」の問題を一因として、生活に「秩序」をもたらしてくれるアンヌとの結婚を決める。しかしセシルの画策により、彼は<ねえ、一日だけ大目に見てくれよ。僕はあの娘のかたわらで、自分が老いぼれじゃないと納得しなくちゃならないんだ>と感じ、浮気に至る。これは客観的に見れば、アンヌへの裏切り行為に他ならないかもしれないが、実は彼なりの誠意であったのではないかと私は思う。
彼はこれまでの享楽的な暮らしを捨て、アンヌとの結婚生活を真剣に考えていた。そこで折り合いをつけることを必要としていた。つまり彼は決して心変わりしたのではなく、これからの変化に乏しい夫婦生活を受け入れるために、最後の記念的な意味合いでエルザを抱いたのだ。言い訳がましく聞こえるかもしれないが、レイモンの浮気はアンヌを思ってこそだった。そう考えることはできないだろうか。
世の中にはそんな、矛盾に満ちた、逆説的な愛が存在するように思える。結局、全ては後付けで、本心を分かり合うことなんてできない。だからこそ人は、傷つけ、傷つけられながらも、何かに期待し、何かを愛さざるを得ないのではないだろうか。=「週刊読書人」2017年12月1日掲載