「文字渦」(円城塔、新潮社)
『文字渦』には、文字の誕生からその未来にいたるまで、様々な趣向を凝らした十二の短編が収められている。「文字通り」という言葉があるのは、裏を返せば「文字通りではない」状況がある、ということでもあるのではないか。表題作「文字渦」をはじめ、十二の短編に一貫するのは、文字通りではない、文字の上でしか成り立たない、文字の小説だということだ。この小説で語られるのは文字の「正史」ではない。歴史上の文献や人物も登場するが、ほとんどがファンタジーである。だからといって、全く現実に根ざしていないかと言えばそうではなく、そこには我々が普段気にもとめない、文字の本来的な機能についての鋭い考察が現れている。
かつて文人は、俳句を書くときと漢詩を書くときでは筆遣いを変えていたと聞いたことがある。フレキシブルディスプレイが普及し、紙の本を持つ人が少なくなった「梅枝」の世界。そこに登場する境部さんも主張するように、本来テキストとはデータではなく、レイアウトやデザインという表現形態も含めて一つのコンテンツであったはずだ。エンジニアである境部さんが開発した高度人工知能搭載のプリンター「みのり」は、源氏物語の内容を理解し、悲しい場面には涙を流し、手を震わせながら文字を描き出す。そこにはテキストと表現系の結合という、複製技術時代以前の問題が垣間見える。
といった、現在の延長に存在するかもしれない近未来の物語も興味深いが、この小説の一番の魅力は、大胆すぎるユニークさにある。「闘字」は希少言語を求め旅する「わたし」が、中国の奥地で文字と文字を闘わせる遊戯に出会う。「天書」では空に浮かび上がった漢字が「―」を発射し合い、当たると消滅するといった、インベーダーゲームを思わせる場面がある。「幻字」では殺人ならぬ〝殺字〟事件が起こり、文字が『犬神家の一族』のスケキヨよろしく逆さまになって池で死んでいる、という衝撃的な字面(絵面?)が出てくる。衝撃的な字面といえば、SNSでも話題になった「誤字」である。ルビが本文とは異なる物語を語り出すのだ。正直、困惑した。本文を読みながらルビを読むことができないが、かといって本文を読んでからルビを読めばいいのか、ルビを読んでから本文を読めばいいのか、皆目見当もつかない。こういった発想は、日本語でしか表現できなかったのではないか。たとえば中国語でも、難読漢字にピンインを振ることはあるが、あくまで音を表すだけで、一切意味を伴わない。「誤字」は、「真剣」と書いて「マジ」と読み、「強敵」と書いて「とも」と読む、そのような日本語の自由度を極限まで突き詰めたものだろう。
物語の筋を追うばかりが読書の楽しみではない。小説家の自由で突飛なアイデアにぶつかることもまた、貴重な読書体験である。『文字渦』は、電子書籍が普及しつつあるこの時代に紙の本を手に取る意義を、あるいはグローバル化が叫ばれる時代に、日本語で作品を作る意義を、いま一度思い出させてくれる作品である。=「週刊読書人」2019年3月15日掲載
「声の文化と文字の文化」(W・J・オング、藤原書店)
黙って一日中だれとも会わない日があるとする。そんな日でも、しかし言葉を使っていないわけではない。むしろそういう日こそ、頭のなかではさまざまの思考が動いている。いうまでもなく思考は言葉で出来あがっている。それらの思考法を僕たちは文字の文化のなかで行っている、とオングはいう。なるほど、たしかに頭のなかでものを考えるとき文字というもの、つまり書き言葉による図式化を意識せずにはいられないだろう。
文字が生まれるまえ、人類はだいたいが発声のみで言葉を扱っていた。そしていまでも文字を持たない人々は世界各地に存在している。彼らはまさに声の文化で暮らしている。声の文化において言葉は行為と切り離せない。というより、言葉は行為に伴って使われるものである。したがって言葉を言葉のみとして扱うことはできない。だから概念を扱うこと、ものを定義することもまたない。声はすでに生きられたものとしてしか扱われない。おもしろい例が紹介されている。声の文化を生きる男に車の定義を求めると〈てっとりばやく言うんだったら(略)車にのってドライブに出かけてみな、そうすりゃ車がどういうものだかわかるから〉と答えたという。彼にとって言葉は対象と密着したものであり、言葉自体を使って対象について思考することがないとわかる。その場合、言葉は専ら他者へ開かれたものである。声の文化において言葉は対話を前提としたものだった。
しかし文字が生まれると、人々は対象と距離をとって内省することが可能になる。たとえるなら、声の文化においては動き続けている世界に対して言葉や思考はともに動くことしかできなかったが、文字の文化においては世界を思考の上で一時停止し、分析することができるようになったといえるだろう。さらに印刷技術が発展すると人々は黙読を内面化し始め、言葉というものが対他者の側面より対自己の側面を多く占めるようになる。また印刷は書き換えられない言葉を生んだ。声の文化の対話のなかでは訂正を繰り返すことができるが、印刷された言葉は一方通行である。以上のことから、声の文化で言葉は共有されたものだったが、文字の文化では自閉的になり、印刷に伴って固定された言葉はさらに閉じたものになったとわかる。そしてそのぶん僕たちの分析力は格段に発達した。
ところでオングが『ORALITY AND LITERACY』を発表したのは一九八二年、『声の文化と文字の文化』という題で日本語に翻訳され藤原書店から刊行されたのが一九九一年のことである。なぜいまさらこの本を勧めるのか。それは、インターネット、とりわけSNSに言葉があふれる時代になったからである。SNSなんて知らずにオングは死んでいっただろうが、しかし彼の論を使って現状について考えることは有益だと思う。SNSの言葉はもちろん文字として固定されている。けれども同時に共有を目的とした言葉でもある。全世界に発信でき、返信を得られるわけだから、声の文化の言葉以上に対話可能だとさえいえる。文字の文化における対話としてSNSの言葉を考える必要があるのではないだろうか。ここでは紹介できなかったが、物語の語られ方や文学のあり方、記憶の仕方、言語の構造、メディアについてなど、オングは声と文字ということからさまざまの方面へ論を展開している。それはいまでも論じる必要のある事柄だろう。共有を目的とした文字という文化が台頭しつつある今日だからこそ無視できない一冊である。=「週刊読書人」2018年11月16日掲載
「ことばと思考」(今井むつみ、岩波書店)
私がこの本に興味を持ったのは、伊藤計劃によるSF小説『虐殺器官』がきっかけだった。どの言語にもあるパターンの「文法」が隠れており、その「文法」が活性化されることで、各国で戦争が引き起こされてしまう、という物語である。この小説に出会ってから、果たして人間は言語を支配しているのか、あるいは逆に言語によって縛られてしまうことはないのだろうかと思い、この本を手に取った。
「ウォーフ仮説」についてご存知の方は多いと思う。北極圏に生きる民族の言語には、雪の種類を表す言葉が20以上もあり、そのレパートリーを多く持つために、彼らは雪を細かく分類して認識するらしいといわれるあの仮説である。
しかし、いくら単語の種類が多いからといって、空から小さな氷が降ってくる現象が、我々の考える「雨か晴れか」といったレベルで認識されているのだろうか?
本書は、言語によって思考は規定されるがゆえに、言語が違えば時に理解不能なまでに思考も異なるものだと主張するウォーフ仮説を、異言語間における様々な実験を用いて検討するのみならず、人間の言語習得と思考の発達から、言語と人間の認識、世界の切り分け方について考える一冊だ。
第一章から第三章では、異言語間での認識に差異があるかどうかを検討するための実験例が多く登場し、言語の共通性や、言語が認識にどのような影響を与えているかを探ってゆく。
他人に道を聞かれたとき、多くの日本人は、何かしらの目印とともに、右、左、という言葉を用いて説明するだろう。空間の認知において、右、左、前、後ろ、などの方向を指し示す言葉は必要不可欠であるように思われる。ところが、この方向を指し示す言葉、概念が存在しない言語があるという。相対的な方向の概念をもたない言語の話者たちは、デッド・レコニングと呼ばれる方向定位能力を持ち、絶対的な方角に従い、方向を示す言葉に頼ることなく空間を認知することができるというのだ。
第四章では、子供の言語習得の特徴を知ることができる。子供は、言語を学ぶのに従い、その認知能力を高めていくように思われるが、実は母語を習得するにつれて、いらない情報を捨象してゆくのだという。実験によると、相対的な方向の概念を習得するまえの子供の空間認識は、絶対的な認識に従っているというから、母語における空間認識方法の違いはデッド・レコニングの能力差の要因のひとつであるのかもしれない。
本書は様々な実験に関する記述が完結にまとめられている反面、総論にあたる記述が少ないようにも感じられる。まだまだ謎が残されているということだろうか。しかし、私は本書の魅力は「謎の入り口」としての側面にあると思う。個別的な実験に基づく科学的な考察を読んでいるはずなのに、人類共通の認識の大枠の存在の「謎」を感じさせられたからだ。本書を読み終えて、私は言語と認識の間には人智を超えた力学がはたらいているのではないかとSFめいたことを考えてしまったし、当初の疑問は解決されなかった。それどころか謎の入り口に立たされてしまったように思う。その不思議さは読了以来、膨れ上がる一方だ。謎と生きる気概のある方へ、ぜひこの本をお勧めしたい。=「週刊読書人」2017年12月8日掲載