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大学生がススメる「2010年代の芥川賞受賞作家の本」

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「消滅世界」(村田沙耶香、河出書房新社)

 「世の中いろんなことが便利になっていくのに、何で結婚は便利にならないんだろうね」
 私の言葉に、母はしかめ面で「変なこと言わないでよ」と返した。私は「便利になっても良いものといけないものがあるのだ」と反省し、それ以上は言わなかったが、不倫や離婚のニュースを耳にする度に「結婚という制度の見直しはやはり必要なのではないか」と思うのだった。

 『消滅世界』では、そんな言ってはいけないのかもしれない私の本音やなかなか上手く言語化できないでいた思いが言葉にされ、物語になっていた。世界に私と似たような感覚を抱えた仲間がいるのを発見したような気がして、私は嬉しかった。
 この物語は、「恋愛」「セックス」「結婚」「子作り」に関する常識が現在とは全く異なっている世界を描いている。恋愛は二次元の「キャラ」とすること、恋人とはセックスをしないこと、結婚相手は恋愛対象として見ないこと、そして人工授精で子供を作ることが「常識」とされている。
 主人公である雨音の母親は、「前時代的」な人間であり、この物語では「近親相姦」としてタブー視されている「夫とのセックス」によって雨音を産んだ。母親は、自分の考え方が正しく、異常なのは世界の方であるとして、雨音に前時代的な常識を押し付ける。雨音はそのような母親の呪縛から逃れたいという一心で、上手く世界に適応しながら大人になっていく。しかし、夫とともに実験都市・楽園に移り住むと、雨音の中にあった「常識」が変化していく。楽園では「家族」も「恋愛」も「セックス」も存在しない。移り住む以前には当たり前だったものがなくなっていく。雨音はそのことに戸惑いながらも、やはりその世界においても上手く適応できてしまう。母親のようにはならない、と世界に適応してきた雨音は、今度は「どの世界においても適応できてしまう自分」に恐怖する。そして、「母に植えつけられたわけでも、世界に合わせて発生させたわけでもない、自分の本当の本能」を求め、ある方法で、雨音はそれを獲得する。

 読者は「昔の価値観を押し付けてくる母親」と「世界に合わせて本能を変化させてしまう自分」の両者と戦い、「自分の本当の本能」を求めた雨音の人生を擬似体験することで、それまで信じて疑わなかった「常識」を疑い始める。今まで私たちが受け継いできた「常識」は、本当に「私たちの本能」で、それは現在の私たちにぴったりと当てはまり、私たちは快適なのだろうか。
 例えば、「恋愛をしない若者が増えた」という話題はかなり前から持ち上がっている。恋愛が人生において優先度の高いものではなくなってきた、という感覚が私の中にもたしかにある。「若いんだからもっと恋愛をしろ」と言う大人もいるが、私たちはその感覚に抗うことができない。「私の本当の本能」が大人の言う「常識」と符合していないのだ。
 母が私に見せたしかめ面は、私と母の感覚の違いを顕著に表していた。結婚を合理的なものにしようとすることに抵抗のない私と、ものすごくそれに抵抗のある母。それは、この物語での雨音と母親の関係にそっくりだ。時代が変わり、環境が変わり、私たちの感覚も変化してきた。もしかしたら私たちはみな『消滅世界』の住民で、現代はリアルな『消滅世界』なのかもしれない。=「週刊読書人」2019年5月24日掲載

「しき」(町屋良平、河出書房新社)

 言文一致というが、言と文が一致するとはへんな話だ。走っている車の絵を描くことと同じ矛盾を孕んでいる。固定してしまえば、車も言葉も止まってしまう。それでも日本文学において言文一致の小説が坪内逍遥と二葉亭四迷の努力を経て田山花袋で完成したとすると、それ以降の日本文学史とはほとんど私小説の歴史であった。私小説といい切って乱暴なら、自意識を小説化する方法の歴史であった、とでもいえばよいだろうか。

 岩野泡鳴や葛西善蔵など多くの作家のなかを駆け抜けて私小説は発展を遂げていったが、自意識を書くことを自覚し、作品と作家の距離を逆説的な方法で近づけようとしたのは晩年の芥川、そしてそれに続いた初期の太宰治だった。太宰は自意識を捕まえようとし、自意識そのものを書こうとした。が、自覚的になったがために冒頭の車の絵のたとえのようなことに気づいてしまった。そこに彼の不可能性があった。さらに時代を下って第三の新人、そして昭和末期、平成の小説になっていくと、焦点人物の自意識、ないし単純な意味での心みたいなものを書くのが一般的になる。もちろんそこには作家の自意識が混入するわけだが、しっかりと物語を構築すれば一応は太宰の不可能性に蓋をすることができる。

 ところでここで問題になるのは、焦点人物の心を地の文が語り得るのか、ということだ。主人公の心に主人公が自覚的なのはおかしい。絵の車を乗りこなしていることになってしまうからだ。そもそも人の心というのは図式化して文で描写できるものだろうか。ならば、芥川の「ぼんやりとした不安」とはなんだったのか。太宰情死の不可解さはなんだったのか。本当のところは自意識にも満たない、いわば未意識といえるものがあって、それらが複雑に絡み合って心は動的に回転を続けているのではないだろうか。

 その未意識の領域に足を踏み入れたのが町屋良平の『しき』だ。地の文は思春期の少年少女たちに点々と焦点化する。しかし彼らは心を文にできない。思索をいきなり始めてはしどろもどろのまま終わったり、実際にはない会話の続きをひとりでしていたり、恋や友情にはさまっている感情に気づく前だったり。それらすべてに支えられていまの心が作られているのに、そのことに無自覚なのだ。だから書きようがないわけだが『しき』では焦点人物と距離をとってむしろ自意識の前の未意識が丁寧に書かれる。焦点人物が気づいていなくても文にされる。それこそ図式化だろうといわれるかもしれないが、未意識からサルベージされた文は文脈と共感によって言に解凍される。未意識が可視化されるから、まだ発せられていない叫びが見えてくる。クラスメイトも地元の友人もなにかに巻き込まれているらしい。自分自身もなにかと戦っている。しかしそれがなんなのかよくわからないし、自分がどう思っているのかもわからない。そのわからないところを文にしている。思春期の心たちが、彼らの気づかないところまで文にされる。焦点化しているのはもはや彼らではなく、人々の未意識の連続そのものなのかもしれない。生まれ続ける文体としてのからだが溶けあったところに言がある。こんな言文一致の術を、僕はほかに知らない。=「週刊読書人」2018年10月5日掲載

「ドレス」(藤野可織、河出書房新社)

 『ドレス』に登場する女たちは、例外なく不気味である。表題作にしても、「ドレス」は単なるアクセサリーショップの名前に過ぎず、そこで売られている(男からすれば)奇怪なアクセサリーに夢中になる女たちの話である。よって、この本をウェディングドレスでも選ぶ境遇にある女性の恋愛物語だと思って手にとった読者は、間違いなくこの「不気味な女たち」に圧倒されることになるだろう。

 例えば「テキサス、オクラホマ」では、恋人よりもドローンに魅力を感じる女が描かれる。彼女はドローンが高度に発達した世界で、ドローン専用保養所の清掃員として働いている。この保養所のドーム内の空はいつも藍色のグラデーションで、白い砂で覆われた床の上には巨大な骨格標本群が置かれており、そこで無数のドローンたちが休息している。こんな時空間がぐらりと歪むような不思議な光景を、作者は一体どうやって思いついたのであろうか。それはともかく、ドローンを愛してやまない彼女は人間全般にあまり関心がないのだが、そんな彼女を大切に想う恋人がいた。しかし、彼は彼女の聖域である保養所に足を踏み込んだばかりに、ドローンに「解体」されてしまう。それはあたかも情熱的な彼が、冷たい女の内部に飲み込まれてしまったかのようだ。(この恐ろしい構図は、続く「マイ・ハート・イズ・ユアーズ」でも踏襲される。)一方、彼女は恋人がいなくなったところで、泣き叫ぶわけでもなく暗闇の中「白目を光らせ」ながら、彼の形見のパーカーを撫でるのみだ。これが彼女なりの彼への哀悼なのだ。

 では何故、本作ではこのような「不気味な女たち」が描かれているのだろうか。その答えは「真夏の一日」における主人公、真夏が見知らぬあどけない男の子と出会った時の描写に秘められているように感じる。
 (男の子の)「細い首から丸く頼りない肩にかけての線の寄る辺なさに心がうずいた。それが愛情だとはっきり意識した瞬間、噴き出した嫌悪がそれを塗り潰した。」「男の子の姿と態度は、女である真夏には彼をかわいがる義務があると宣告していた。真夏は敢然とそれを拒否した。」

 なぜ彼女はここで、自らの愛情を頑なに否定するのか。それは自身の感情が「母性本能」として語られてしまうことへの嫌悪感からである。他愛もない一個人の感情が、女という性に結び付けられ、義務として迫ってくるくらいならば、そんなものは無かったことにした方が良いのだ。この一見、非情な真夏の態度から伺えるのは、社会の中で女として生きていくための強さである。

 本作『ドレス』には、他にも多くの「不気味な女たち」が登場する。しかしなぜ、恋人よりもドローンに夢中になる女が、子供を純粋に可愛がれない女が、不気味なものとして映るのだろうか。それはこの現実世界において、そのような女性像は望まれないものとされてきたからである。彼女たちはいわば、この社会に抑圧され黙殺されてきた女たちである。そんな彼女たちの行動は一見、不可解で薄情だが、作者はこう問うているように思われる。「こんな女がいてもいいではないか」と。=「週刊読書人」2018年7月6日掲載

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