「凍りのくじら」(講談社)
白く凍った海の中に沈んでいくくじらを見たことがあるだろうか。
辻村深月の『凍りのくじら』は、このような一節から始まる。氷の中で段々と力を失い、深い海に沈んでいくくじらの姿が鮮明に浮かんでくる。
辻村深月は二〇〇四年にデビューし、『鍵のない夢を見る』で直木三十五賞を受賞、さらに昨年には『かがみの孤城』で本屋大賞を受賞している。今日本で最も勢いのある作家の一人と言っても過言ではないだろう。『凍りのくじら』は、辻村のデビュー作である『冷たい校舎の時は止まる』に続いて発表された、二作目の小説である。
本書の主人公は、進学校に通う女子高生・芦沢理帆子。読書家でありどこか冷めている彼女は、自身の頭の良さを自覚しつつ、周囲の人間を見下している。『ドラえもん』の作者である藤子・F・不二雄を敬愛する彼女は、藤子の『「SF」とは、「すこし・ふしぎ」な物語である』という言葉にならい、自分の周りの人間を「スコシ・ナントカ」で表す癖がある。例えば、合コンでいい男を探し求める友人のカオリは、「Sukoshi・Finding(少し・ファインディング)」であり、夫が失踪し、病魔に体を蝕まれている母の汐子は「Sukoshi・Fukou(少し・不幸)」であるといったように。そして、理帆子は自分自身については「Sukoshi・Fuzai(少し・不在)」と表現する。どこにいても誰といても、そこが自分の本当の居場所だと思えない。日常に息苦しさを感じながら生きる彼女は、夏のある日、「写真のモデルになってほしい」と頼む一人の青年と出会う――。
辻村深月の作品には、中学生~高校生を主人公とした、青春の苦さや日常の閉塞感を描いたものが幾つかある。なかでも『凍りのくじら』は、大人びていて達観しているように見えて、実は幼く傷つきやすい少女でもある理帆子の姿を、繊細な文章で描いた作品である。
「どこにいても誰といても、そこが自分の居場所とは思えない」という感覚を味わったことのある人は、実は少なくないのではないだろうか。特に多感な思春期においては、そういった感情を抱くことが多いように思う。青春の真っただ中で、母や友人など周囲の人々に愛され、それでもなお孤独を感じてしまう理帆子は、凍った海の中でもがくくじらのように痛々しく、見ている者の心を揺さぶる。そして本書を読み進めるうちに、いつの間にか読者は理帆子と同じように苦しみ、悩み、そして救われたいと願うのである。
辻村深月の作品は、どんなに残酷で不幸な出来事が登場人物に降りかかっても、それでも最後には、ほのかな光や希望を感じさせるものが多い。『凍りのくじら』の結末についてここでは言及しないが、青春の痛みや苦しみを容赦なく描いた本書すら、読了後にはじんわりと心が温かくなる。そして、散りばめられた伏線が回収される時、私たちは隠されていた事実に胸を打たれるのである。
『凍りのくじら』には、作家・辻村深月のルーツが詰まっている。『ドラえもん』ならびに藤子・F・不二雄への情熱と敬愛、青春の痛み、ミステリー要素と鮮やかに回収される伏線。まだ辻村の作品を読んだことのない人にも、また、直木賞や本屋大賞などを受賞した作品しか読んだことのないという人にもぜひ、本書をお勧めしたいと思う。=「週刊読書人」2019年4月5日掲載
「青空と逃げる」(中央公論新社)
あなたは突然、たった1本の電話で平和な日常が奪われたらどうするだろうか。それも家族の絆も一緒に。
本書ではある出来事をきっかけに普通の家族がどん底にまで追い込まれてしまう。その家族は母の早苗、父の拳、そして息子の力の3人暮らしで父は劇団の仕事をしており、そんな父を力は尊敬し、稽古場にも足を運んでいた。幸せに暮らしていた中で、突然母に1本の電話がかかってきて、父が乗っていた車が交通事故に遭ったことを知る。隣には運転者である遥山真輝という女優も一緒に乗っており、2人とも命に別状はなかったが、父の拳は理由も分からずに早苗と力から行方をくらませ、遥山の方は女優の仕事が出来ないかもしれないぐらいに大怪我をしてしまい、そのショックから自殺をしてしまった。事務所や遥山のファンからは死んだのは拳のせいなのではないか、そして挙句の果てには不倫とまで疑われてしまい、事務所は夫の行方を探そうと早苗と力に必要以上に付きまとい、力は友達から嫌がらせをされてしまう。そんな生活に耐えられなくなった2人は今の環境から逃げることを決意するのだが、事務所からの追跡や父の拳がなぜ2人から逃げたのか、。様々な疑問が湧き起こる中で、真実の先にはいったいどんな家族の物語があるのか。
1度巻き込まれてしまったらどこまでも叩かれる。この本ではまさに、世間の狭さや冷たさ、学校でのイジメ問題など、普通に生きていくことの大変さ、現代社会の生きにくさを表しているかのようであった。しかし、同時に人間の温かさと親子のたくましさを感じることができるエピソードも多くあった。
親子は全国各地へ逃亡を続けるのだが、その逃亡先で出会った人達から2人は多くのことを学び、成長をしていく。そして出会いがあればあるほど耳にすることがある。それは「言葉」である。普段何気なく使っている言葉でもふとしたことで心に響き、自分を変えることができたり、逆に傷つき、落ち込んでしまうこともある。2人も初めはまさにそうであり、言葉で傷つき、世の中に絶望していた。しかし、その言葉が2人を変えるきっかけにもなったのだ。母の早苗は逃亡先の仕事場で先輩社員の言った「背負うものがある者は強い」という言葉で力と共に生きていこうと決意をすることができ、力は友人との別れの際の「連絡ちょうだいね。待ってるから」という言葉で自分にも求めてくれる友人がいることに自信をつけることができた。
このように言葉の1つで人間は変わってしまい、その後の人生にも大きな影響を与えることだってある。それほど言葉には大きな力があるのだ。そう思うと言葉を話すことや聴くことが怖いかも知れないが、自分から行動をして多くの人に出会い、多くの言葉を聴かなければ自分を変えることができず、新しい扉は開かれない。そして家族や友人などを大切にすることがいつか必ず大きな力になり、自分を救うことにもなるのだ。そんなことに気づかせてくれ、自分を変えるためのヒントを与えてくれたこの本には感謝しており、皆さんにも自信を持って薦めたいと思う。=「週刊読書人」2018年9月14日掲載
「ぼくのメジャースプーン」(講談社)
本書は直木賞作家である辻村深月氏により書かれたものである。
主人公である小学四年生のぼくを語り手として物語は進んでいく。ぼくには母親の家系から代々受け継がれる特別な力があった。その力とは「Aをしなさい。そうしなければBになってしまう。」という条件を提示し、相手にAの行動をするかBの罰をうけるかを選ばせ強制的に縛るというものである。ぼくはこの力があることを周りに隠して生活していたが、ある時学校で飼われているウサギが医大生である市川雄太により切り刻まれ殺されてしまうという事件が起きる。この切り刻まれたウサギを発見したのはぼくの幼馴染のふみちゃんであり、ウサギが大好きで一番面倒を見ていたふみちゃんはショックのあまり言葉を失い話すことができなくなってしまう。事件を起こした市川雄太はすぐに捕まるが、罪状は器物損壊であり、ウサギの体と命そしてふみちゃんの心を壊した罪に対してあまりにも軽すぎる罰であった。ぼくはそのことが許せず、適切な罰を与えるために市川雄太に力を使うことを決める。
この物語では多くの場面が、親戚で唯一同じ力を持つD大学教育学部教授秋山一樹のもとで力の使い方を詳しく教わったり、どんな条件を市川雄太に提示するかについて話し合うなど、ぼくが市川雄太に対して力を使うための準備に費やされている。自分は本書を読んでこの秋山先生とのやり取りの中で小学生のぼくが罰について考えるということがこの物語の主軸となっていると感じた。どれほどの重さの罰が適切なのか、そもそも罰を与えることは正しいのかなど多くのことを秋山先生から問いかけられる。そしてそれらの問いに対して考え、どんな罰を与えるかぼくなりの答えを出し市川雄太と対峙する。
本来、どんな理由があろうと復讐という行為は決して許されるものではない。しかしぼくはふみちゃんのために市川雄太に自らの手で罰を与えることを決める。その行為は道徳的とは言えず、正しさという後ろ盾がない中でそれでも大切な人のために戦おうとするぼくの姿に、自分はその行いは間違っていると本当に言えるのだろうか、という気持ちになった。大切な人がある日突然、理不尽な悪意によって傷つけられるという現実でも起こるかもしれない状況で自分ならどうするかを考えながら、正解などない中でぼくがどのような答えを出したかを読んで確認してほしいと思う。
本書は物語全体を通して、「罪」と「罰」という重たいものを題材にしており、また先ほども述べたように小学生であるぼくが自分が持つ特別な力を使い、市川雄太に対して罰という名の復讐をどのようにするかについて一貫して考えている。そのため物語全体が暗い雰囲気になってしまい、希望のない物語なのかと思われるかもしれない。しかし決して痛みや悲しみだけではなく、ぼくのふみちゃんへの深い愛情や周りで支えてくれている大人たちの温もりや優しさを感じられる作品である。=「週刊読書人」2017年8月4日掲載