「乗りテツ」なんて自称したら本物の鉄道マニアに鼻で笑われてしまうだろうが、列車に揺られている時が至福の時間であることに間違いはない。先日は「くま川鉄道」に乗るべく、熊本は人吉(ひとよし)に足を伸ばした。JR鹿児島線で八代(やつしろ)まで南下し、肥薩(ひさつ)線に乗り換える。清流、球磨(くま)川沿いに山中へと分け入って行く、美しい車窓が堪(たま)らない。
実は肥薩線の最大の魅力は我が国、唯一のスイッチバックとループ線の連続である。しかし今回は人吉駅で降りてしまうため、この区間は乗られない。まぁ球磨川の美しさを満喫できたからよいではないか、と自らを慰める。
くま川鉄道に乗り換えてみると名前とは裏腹に、川面はあまり車窓からは望めなかった。ただし球磨盆地の中央を横断するため、四方を囲む山の眺めが楽しめた。「我が国でここだけ」という、「幸福」の名がつく「おかどめ幸福」駅なんてものもあった。
終点は「湯前(ゆのまえ)」駅である。だがここも名前とは裏腹に駅前に入浴施設はなかった。ならば長居しても仕方がない。折り返して人吉に戻るだけである。
戻ると駅前からブラブラ歩き、人吉旅館に行った。立ち寄り湯で温泉に浸(つ)かる。ぬるぬるの湯が心地よく、身体の芯まで温まった。極楽である。
温泉の次は生ビール、と相場は決まっている。2杯目以降は駅の待合室の缶チューハイで我慢できても、1杯目だけは生ビールでなければならない。
駅の方に戻ると居酒屋が開いていた。有り難く飛び込み、生ビールと、早く出てくるつまみとしてカラシ蓮根(れんこん)を注文した。さぁもう一品は何を頼むか? 肥薩線は本数が少ない。1本、逃すと大変なことになる。すると許される時間はさしてない。手間の掛かる料理は避けた方がよさそうだ。
「ぐるぐるの天ぷら」というメニューを見つけた。「一文字(ひともじ)ぐるぐる」は熊本の郷土料理で、小ネギを茹(ゆ)でて根元を軸とし、葉の部分をぐるぐる巻きつけたものである。酢味噌(みそ)をつけて食べるとシャキシャキの歯触りが堪らず、最高のつまみになる。だがその天ぷらとなると、聞いたことがない。
早速、注文した。こちらは名前の通り、「ぐるぐる」に衣をつけて油で揚げたものだった。齧(かじ)ると衣が割れ、中からネギの旨味(うまみ)がじゅっ、と飛び出す。甘めのタレとの相性も抜群だ。
時計を見るとまだ何とかなりそうな時刻だった。迷うことなく、日本酒を追加注文した。あぁ、幸せ……
旅先でふらりと入った店で、想定外の美味と出会う。これぞ、行き当たりばったり旅の醍醐(だいご)味なのだ。=朝日新聞2019年3月2日掲載
編集部一押し!
-
文芸時評 深い後悔、大きな許し もがいて歩いて、自分と再会 都甲幸治〈朝日新聞文芸時評25年11月〉 都甲幸治
-
-
インタビュー とあるアラ子さん「ブスなんて言わないで」完結記念インタビュー ルッキズムと向き合い深まった思考 横井周子
-
-
えほん新定番 内田有美さんの絵本「おせち」 アーサー・ビナードさんの英訳版も刊行 新年を寿ぐ料理に込められた祈りを感じて 澤田聡子
-
谷原書店 【谷原店長のオススメ】馬場正尊「あしたの風景を探しに」 建物と街の未来を考えるヒントに満ちている 谷原章介
-
オーサー・ビジット 教室編 自分で考えて選ぶ力、日々の勉強と読書から 小説家・藤岡陽子さん@百枝小学校(大分) 中津海麻子
-
鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第32回) 堀江敏幸「二月のつぎに七月が」の語りの技法が持つ可能性 鴻巣友季子
-
トピック 【プレゼント】第68回群像新人文学賞受賞! 綾木朱美さんのデビュー作「アザミ」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】大迫力のアクション×国際謀略エンターテインメント! 砂川文次さん「ブレイクダウン」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
トピック 【プレゼント】柴崎友香さん話題作「帰れない探偵」好書好日メルマガ読者10名様に PR by 講談社
-
インタビュー 今村翔吾さん×山崎怜奈さんのラジオ番組「言って聞かせて」 「DX格差」の松田雄馬さんと、AIと小説の未来を深掘り PR by 三省堂
-
イベント 戦後80年『スガモプリズン――占領下の「異空間」』 刊行記念トークイベント「誰が、どうやって、戦争の責任をとったのか?――スガモの跡地で考える」8/25開催 PR by 岩波書店
-
インタビュー 「無気力探偵」楠谷佑さん×若林踏さんミステリ小説対談 こだわりは「犯人を絞り込むロジック」 PR by マイナビ出版