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藤原ヒロシさんの音楽遍歴 マイノリティが協力すると面白いカルチャーが生まれる

文:宮崎敬太、写真:有村蓮

パンクはスノッブなマイノリティが結束して生まれた

――ヒロシさんは1982年に渡英してから、独自のコネクションを作り上げて、日本にさまざまなカルチャーを紹介してきました。パンク少年だったヒロシさんがロンドンに行ったことはどんな意味があったと思いますか?

 中学生の頃、日本でパンクを聴いてた時は労働者階級の反骨精神みたいな部分に憧れてたんですよ。でもロンドンに行って、パンクもファッション・ムーブメントの一つだったのかな、と感じました。すごく象徴的だったのは、当時ロンドンでアートの仕事をしてるゲイの人と話した時。彼は、「(自分の)ギャラリーでデビュー前のセックス・ピストルズがライヴをした」と言ってたんですよ。このエピソードってすごくスノッブで、いわゆる労働者階級的なパンクのイメージとは程遠い。でも本当に最初のパンクはそんな感じだったのかなって思ったんです。つまり「労働者階級」「政治性」「暴力」みたいなのは、メディアの後付けが大きかったのかな、と。

 あと僕が面白いと思ったのは、最初期のパンクムーブメントに関わってた人たちがみんなマイノリティだったということ。パンクの枠組みを作ったマルコム・マクラーレンや、その衣装を作ったヴィヴィアン・ウエストウッドはもちろん、当事者であるピストルズや、アートをやる人も、ギャラリーを経営してたゲイも、みんな少数派だった。僕はロンドンに行って、カルチャーとは、違うジャンルのマイノリティが協力して作り上げるものだということを知りました。

 当時の僕は全身パンクの服を着た小さな日本人だった。ロンドンでそんな僕は完全にマイノリティだったわけだけど、向こうの人たちは面白がって受け入れてくれたんです。何日も居候させてくれたり、新しい友達を紹介してくれたり。そういう人たちもやはりマイノリティでした。僕はロンドンに行って、少数派同士はジャンルが違ってても仲良くなりやすいってことも体験できた。それが一番大きかったと思います。

――ですが、今回の本にはパンクの作品がほとんどありませんね。

 パンクのムーブメントやカルチャーにはものすごく影響を受けてて、間違いなく僕の根底にあるものなんですけど、音楽をいまだに聴き続ける感じではないんですよね。これは音楽だけに限らないんですが、僕は進化して変わっていくものに興味がある。

 もちろんパンクを突き詰めたクラスやディスチャージみたいなバンドも当時は普通に聴いてて好きだった。けど個人的には、スカをやってたザ・スペシャルズのテリー・ホールが、次のバンド(ファン・ボーイ・スリー)でいきなり民族音楽になってたりすることに面白さを感じたんですよ。

――『MUSIC 100+20』でニューウェーブの作品をたくさん紹介しているのは、ヒロシさんが音楽に「変化することの面白さ」を感じているからですか?

 それはあるかもね。これは本の中のファン・ボーイ・スリーのページで書いたんだけど、ニューウェーブの全盛期だった80年代前半って、パンク・ムーブメントに刺激を受けた人たちが音楽的に成熟しはじめた時期なんですよ。しかも面白いのはみんながそれぞれ独自の方向性を持っていたこと。だから音楽がブワッと広がっていく感じがしたんです。リアルタイムで聴いてた時は理解できない作品もあったけど、そういう予想外の展開も含めてすごくワクワクしてました。ああいうのは80年代前半しかなかったと思います。

Fun Boy Three - It Ain't What You Do

マルコム・マクラーレンはもっと評価されるべき!

――ニューウェーブでは前述のファン・ボーイ・スリーやバウ・ワウ・ワウなど、民族音楽を取り入れたアーティストが登場しますが、これはどういう流れから来たものなのでしょうか?

 民族音楽にもいろいろあるんだけど、この時期に取り入れられたのはブルンジ共和国という東アフリカの音楽に影響を受けたブルンジ・ビートとか、南アフリカのムバカンガとか。パンクからの流れで聴いていくとニューウェーブ期に突拍子もなく民族音楽の要素が入ってきたように思えるかもしれないけど、実はブルンジ・ビートとムバカンガは70年代にもイギリスで流行してたみたい。それが下地になってる部分はあると思う。

 でもマルコムに関しては、政治的背景からもアフリカ音楽に注目したみたい。ヨーロッパの人たちは、アフリカを植民地にして現地の人を奴隷にしてたことに対して、なんとも言えない複雑な感情を抱いてるんですかね。ピストルズ解散後、パンクを離れた彼はその部分をポップスで表現しようとしたんですよ。

Bow Wow Wow - See Jungle! (Jungle Boy) (Audio)
Mahotella Queens - Umculo Kawupheli (1973)

――ムバカンガの曲を収録したコンピ盤「Soweto Never Sleeps - Classic Female Zulu Jive」も本で紹介されていますね。

 こういうのを聴くと驚かされるよね。目の付け所もそうだし、まとめ方や枠組みの作り方がすごい。植民地と奴隷という扱いの難しい政治的なステートメントですら、ポップに表現できてしまう。本当に彼はもっと評価されるべき。そんな彼の魅力が一番わかりやすく表現されてるのが「Buffalo Gals」だと思う。

Malcolm McLaren - Buffalo Gals

 この曲は当時生まれたばかりの黒人文化であるヒップホップと、白人の象徴であるヒルビリーミュージックをミックスしてるんだよね。PVで伝統的な白人のフォークダンスのあとに、最新のブレイクダンスのシーンをつないだりとかさ。すごくシニカルだと思わない? でもバランスが取れてるんだよね。そういうアンバランスなバランス感覚にすごく影響を受けました。

――「Buffalo Gals」が収録されたアルバム「Duck Rock」を紹介するヒロシさんの文は熱がこもってました。

 「Duck Rock」は本当に素晴らしいアルバムだから。本でも書いたけど、「Duck Rock」はこれまでリマスターすらされてないんですよ。僕はマルコム関連の結構レアな音源をたくさん持ってるので、一時期デラックス盤を出そうと水面下でいろいろ調べてたんですね。そしたら、当時のラジオをそのままサンプリングした箇所とかの権利がどこに帰属してるかが全然わからないんです。だから再発する際の許諾も取ることができない。「Duck Rock」がリマスターすらされてないのは、そういう問題もあるみたい。つまり今の法律では許されないアルバム(笑)。でも僕は「Duck Rock」のデラックス盤化をまだ諦めてなくて、いまも実現のためにいろいろ試行錯誤してる最中なんです。

ヒップホップを最初に目撃したクラブでかかっていたのは……

――83年にニューヨークで体験したヒップホップはどのようなものだったんですか?

 ニューヨークに行くきっかけを作ってくれたのはマルコムでした。僕は83年のロンドン旅行で、マルコムの家に遊びにいってたんです。その時ヒップホップの話で盛り上がってたら、マルコムが「すぐにニューヨークで体験するべき」って、その場でいろいろ段取ってくれて、ニューヨークに行くことになったんです(笑)。

 で、ロンドンからニューヨークに行って、僕はマルコムの友達に連れられてロキシーというクラブに行きました。そこはマルコムとヴィヴィアンがロンドンでやってた洋服屋さんの「ワールズ・エンド」で働いてたブルーという白人の女の子が作ったお店で。ちなみにマルコムはブルーからもヒップホップの情報を得てたみたい。

 行くまでは黒人だらけでヒップホップしかかかってないような、ちょっと危険そうな場所を想像してたんですよ。でもロキシーは日本でいうヴェルファーレとかマハラジャみたいないわゆるオオバコで、白人のオシャレな人たちもたくさんいました。しかも入った時にかかってたのはブルース・スプリングスティーン(笑)。

――「あれっ?」って感じになりますね(笑)。でもロンドンから来たパンク上がりの白人の女の子が作ったオオバコのクラブで、ヒロシさんが初めてヒップホップを目撃したというのは面白い事実です。

 ヒップホップはメインイベントの出し物みたいなノリだった。アフリカ・イスラムがDJをして、ロック・ステディ・クルーがブレイクダンスを踊ってましたね。

Grandmaster Flash & The Furious Five - The Message (Official Video)

――ヒロシさんはヒップホップのどんなところに衝撃を受けたんですか?

 他人のフレーズを勝手に使っちゃうという発想。シュガーヒル・ギャングが「Rapper’s Delight」でシックの「Good Times」をバックトラックとして使うとか。あとやっぱりアフリカ・バンバータの「Planet Rock」。なんでブロンクスの黒人が、ドイツのクラフトワークのフレーズを使ってるんだろう? ジェームス・ブラウンとかならまだわかるんだけど。

 ちょっと面白い話があって、マルコムは「Duck Rock」制作時にスクラッチができるDJを探してたんですよ。現在のイメージからすると、如何にも反発されそうじゃないですか? 「白人が黒人の文化を盗もうとしてる」的な。でも実はみんなマルコムと一緒にやりたがってたんだって。当時の有名なDJはみんな手を挙げてて、その中からWorld’s Famous Supreme Teamが選ばれたみたい。

 どうやら初期のヒップホップの人たちはみんなパンクにすごく憧れてたらしいんですよ。アフリカ・バンバータとかグランドマスター・フラッシュって鋲を打った革ジャンを着てたんですけど、あれはパンクの影響らしくて。最初期のヒップホップはすごくオープンマインドで、だからこそいろんなものが混ざった面白いものが生まれたんだと思う。そう考えると、アフリカ・バンバータが「Planet Rock」でクラフトワークのフレーズを使ったのも合点がいくよね。

Afrika Bamabaataa & The Soulsonic Force - Planet Rock (Official Music Video)

――ちなみにロンドンでヒップホップはどのように受け止められていたんですか?

 ニューウェーブの人たちはみんなヒップホップに衝撃を受けて、自分たちの音楽に取り入れてましたね。代表的なところだと、ピストルズのジョニー・ロットンがアフリカ・バンバータとビル・ラズウェルのプロジェクト・タイムゾーンに参加したりとか。これもマイノリティ同士が仲良くなって何かを作り上げた好例だと思う。

Time Zone - World Destruction (1984)

――83年から日本でDJとしての活動をスタートさせます。

 はい。最初はテクニックや機材も含めて、何もわからなかったから数少ない仲間と一緒に手探りでやってましたね。

――当時の日本には、かなり厳しい縦社会のディスコDJの文化がありました。ヒロシさんはそういう人たちと、どのように付き合っていたんですか?

 付き合いは全然なかったですね。まったく別物だったので、向こうからは相手にされてなかったと思う(笑)。日本のディスコのDJって、お客さんからリクエストされた曲を、お店のレコードの中から選んでかける人が多かったんですよ。だから曲のことを全然知らない人もいて。そもそも当時の日本には、自分のレコードを持ち歩くという概念がなかった。でも僕は自分のよく知らない曲をかけるのはDJとしてカッコ悪いと思ってた。だから僕はでっかいレコードバッグを担いで、えっちらおっちらクラブに行ってたんです。

――ということは、日本でレコードバッグを持ち歩き始めたのはヒロシさんなんですか?

 いやいや。ロンドンナイトの大貫憲章さんとか、当時レゲエとかかけてたDJはみんな自分でレコードを持ち歩いてたよ。お店には彼らがかけたいレコードがなかったからね。だから僕が最初というわけではないです。でも、今ではレコードを使うDJ自体が少数派になっちゃったのかな。

パンク世代には音楽的な優等生が多い

――本書ではドナルド・バードやジョン・ルシアンといったレアグルーヴの作品もたくさん紹介されていました。ヒロシさんはレアグルーヴ・ムーブメントもリアルタイムで体験してますね。

 うん、ジャジー・Bが「アフリカン・センター」でやってたパーティ、ソウルⅡソウルとか。照明が全然なくて真っ暗でしたね。アフロ・ビートっぽいものからJB’sまで、今ではレアグルーヴと言われる音楽がかかってました。ちょっと時期は忘れちゃったけど、確か1987年かもうちょい後くらい。

――そもそもレアグルーヴはどういう流れで生まれたムーブメントなんですか?

 レアグルーヴはヒップホップに影響を受けたイギリスのDJたちから生まれたんですよ。もともとヒップホップのDJたちは、ブレイクビーツに興味があった。2台のターンテーブルに同じレコードを乗せて、ドラムだけの数秒間を延々とつなぎ続けてビートを作る。その数秒間のドラムをブレイクビーツと呼んだんです。

 でもある日、ブレイクビーツの入ってるレコードのドラム以外の部分にも注目したんです。「ブレイクビーツとしては使えないけど、曲として単純に良いよね」って。それがレアグルーヴなのかな、と。これも結局はパンク世代の人たちがキーになってる。新しい音楽を取り入れることに対して貪欲だし、変わることに躊躇がない。音楽的優等生が多いんです(笑)。

――ちなみにそれはワイルド・バンチと同時期くらいですか?

 いやワイルド・バンチのほうが先かな。彼らは1983年くらいからイギリスのヒップホップチームとして活動してて、最初はDJマイロとネリー・フーパーの2人だったんですよ。80年代中期、ブリストルではなくロンドンのカムデンタウンに住んでて。よく彼らの家に遊びに行ってました。

――ワイルド・バンチとのエピソードは本の中にも出てきますね。以前バッファローコートらしき服を着たネリー・フーパーがサウンドシステムの前でポーズを決めてる写真を見たんですが、彼もヒロシさんのようにパンクからニューウェーブを経て、独自のサウンドを制作するようになったんですか?

 ネリーもパンク世代だからね。面白いことに1980年代後半から90年代前半にかけて活躍する人たちは、ニューウェーブの意外なバンドに在籍してて。ネリーはマキシマム・ジョイの仮メンバーだったし、ボム・ザ・ベースのティム(・シムノン)はスロッビング・グリッスルの周りにいたんです。

――スロッビング・グリッスルはかなりアバンギャルドなバンドですよね。音楽的にもボム・ザ・ベースとは全然違います。

 そう。ティムはスロッビング・グリッスルの周りの最年少で、しかも音楽的にかなりコアな部分を担ってたみたい。その話を聞いた時は、僕もさすがにびっくりしましたね。ティムと知り合ったのは僕がもう本格的にDJをやってた頃。マイロやネリーとも、音楽やカルチャーという面での共通言語があったからすぐ仲良くなれましたね。

 僕はパンクやニューウェーブが大好きだったけど、同時に姉の影響で子供の頃からソウルやファンクもたくさん聴いてたんです。当時のロンドンはパンク・ムーブメントが終わって、ヒップホップやレアグルーヴが流行り始めてたから、その空気感と僕の音楽の趣味がマッチしたというのも大きかったと思います。

ネリー・フーパーとイギリスの山の麓でDJをしたことがある

――レアグルーヴ以降、80年代後半からイギリスにはレイヴカルチャーが本格的に到来します。ヒロシさんにはあまりレイヴのイメージはないですね。

 実はイギリスの山の麓でDJをしたことあるんですよ。それがレイヴというのかわからないけど。

――えっ!?

 ネリーと遊んでたら、ある日バスで全然知らない山奥に連れて行かれて(笑)。夕方にみんなでご飯食べて、夜中に外でDJして、朝方帰る、みたいな。その時はアシッド・ハウスがめちゃくちゃ流行ってましたね。

 僕、お酒は一滴も飲まないし、ドラッグも一切やったことないんです。興味ないし、18歳の頃からそういうのをやらないのがカッコいいって自分で決めちゃってた。だけど、当時のイギリスは本当にエクスタシーというドラッグの威力がすごくて。クラブとか野外パーティみたいなところに行くと、会う人全員が「俺とお前はブラザーだ」みたいなノリなんですよ。僕はずっとシラフだったんですけど、本当にどこもかしかもそういう感じだったから慣れたし、それはそれで楽しかったですよ。

――いわゆる「セカンド・サマー・オブ・ラブ」というレイヴのムーブメントですね。

 当時、お金持ちのDJが「エクスタシーを買い占めて水源に入れたい」って言ってたのは笑ったな。そしたらイギリスが平和になるって。でもあれ、ほんの一瞬の出来事だったと思います。

――そういえば、本書で紹介されている「The Wild Bunch: The Original Underground Massive Attack」には、アシッド・ハウスの名曲であるMr. Fingersの「Can You Feel It」も収録されているので、そういう意味ではネリーが当時レイヴでDJしてたのは当然のことなのかも。

 うん。あの頃は本当によくネリーの家に遊びに行ってて。マッシヴ・アタック用にスペシャルズの「Ghost Town」をサンプリングしたデモを作ってボツにされたりしましたね(笑)。

The Specials - Ghost Town (Official Music Video)

ハウスDJの本質はその場にいる人たちを楽しませること

――『MUSIC 100+20』にはいわゆるメディアが脚色した世界ではない、リアルな体験や感想が書かれていたのがすごく面白かったです。

 あの頃は若くてフットワークも軽かったから、いろんなところに行っていろんな人とフランクに友達になれたんです。というか、僕はどっちかっていうと日本でもロンドンでも弟分キャラなんですよ。マルコムやトシちゃん(中西俊夫)みたいな年上の人の後をひょこひょこ付いて行って、いろいろ見せてもらってた。実はいまでもそういう感じなんですけどね(笑)。

 あとね、さっきも言ったけど当時は今と違ってリリースされる作品の数が圧倒的に少なかったんですよ。僕は西新宿のレコード屋に毎週通ってたけど、チャートに入るやつはとりあえず一通りチェックして、プラス新譜を全部買ったとしてもたかが知れてて。で、足りない情報は想像で補ってたんです。例えばロンドンのクラブでは「ニューウェーブやヒップホップ、ディスコがめちゃくちゃにミックスされてかかってるんだろうな」とか。けど実際にロンドンに行ってみると結構違いましたね。意外と普通にグレイス・ジョーンズみたいな売れ線もかかってたし。でもその感覚は後々ハウスDJになる過程ですごく大きいものになりました。

――どういうことでしょうか?

 僕がハウスにハマったのは札幌で活動してたDJ NORIとHEYTAのDJを聴いたことだったんです。ヒップホップにどハマりしてた時にニューヨークにあったハウスの有名なクラブ「パラダイス・ガラージ」にも行ってるけど、その時はタイミング的にまだハウスを理解できてなくて。まずヒップホップのDJってテクニックを見せることが大事なんですよ。もっとプレイヤーに近い感覚。だからスクラッチでノイズを作って自己主張する。

 けどハウスDJの本質はその場にいる人たちを楽しませること。同じDJでも全然質の違うエンターテインメントなんです。ディスコやファンクをすごく綺麗に繋ぐNORIとHEYTAのDJを聴いて、我に返りました。「DJって本来こういうもんだったな」って。僕がロンドンで体験したクラブでも、やっぱりDJはお客を楽しませることに徹してたんですよ。だからヒットチャートに入る曲も普通にかけてたし。それに僕の資質としても、バーンと自分が前に出るより、繋ぎのテクニックや選曲を通じて曲の良さを伝えるほうが性に合ってたんです。

――それで躊躇なくヒップホップDJからハウスDJに転向するんですね。

 そうそう、僕も音楽優等生が多いパンク世代だから(笑)。音楽に限らず、僕はすべてにおいて新しいものに興味があった。だから誰とも徒党を組まず、1人でも。もちろんその時々で興味があることを共有できる友達と一緒にいることはあるけど、ずっとそこに止まりたくない。

 例えば僕が1stアルバム「NOTHING MUCH BETTER TO DO」を出した時、多くの人はびっくりしたと思う。自分でも、世の中からヒップホップやハウスっぽいアルバムを期待されてると思ってたし。でもあの頃は少し打ち込みのサウンドに飽きていて生演奏が面白いのかなって思ってた。だから、自分のルーツであるメロウな作品を作ったんです。クラブでDJがプレイするアルバムじゃなくて、自分が聴きたいアルバム。そういう意味では、この『MUSIC 100+20』を読んでもらうと、あのアルバムをより楽しめると思う。

 僕は本質的に天邪鬼なところがある。そして僕が興味を持つことの多くは、マイノリティが関わってる。だからマイノリティ同士でスムーズに仲良くなれて、いろんなことができるのかもしれないですね。