哲学書が売れるときはいつでも「異例の」売れ行きと言われるが、哲学書だって売れるものは売れる。大切なのはなぜ売れ/売れず、何が現代社会に響くのか/響かないのか考えることだ。マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)の「異例の」大ヒットはどうだろうか。様々なスポーツが異なるルールのもとに行われるように個別の「意味の場」だけがあり、それらを包括する「世界」は存在しないと主張する彼の「新実在論」はどうだろうか。こうした問いのヒントの詰まった本が刊行された。昨年の夏に一週間あまり日本に滞在した彼の発言をNHKのスタッフがまとめたものだ。
彼は自身のプロジェクトを「現代の理性主義」と呼んでいる。そこからわかるのは彼が、「世界」が存在しないにしても、哲学の普遍性が損なわれるとはまったく考えていないということだ。彼は哲学はチェスのようなものであり、ヒトラーにだって簡単に勝てると言ってみせる。およそ非理性的に見える政治(つい先日もトランプが野党の活動を自身への「ハラスメント」と呼んでいた)が行われている現代においてこうした考えは魅力的だろう。しかしヒトラーはそもそも哲学者とのチェスになど乗らないからヒトラーなのではないだろうか。
どうして哲学というチェス盤の前に万人を引っ立てることができると言えるのだろう。それはおそらく彼が「道徳的事実」というものが存在すると考えているからだ。あらゆる価値が相対化される現代においても、「子どもを拷問してはならない」ということはゆるがせにできない「事実」だと彼は語る。しかしこのとき「子ども」を盾に取っているのはガブリエルの方ではないか。どうしてそうまでして哲学の、そして理性の普遍性を堅持したがるのだろう。あなたは彼のチェス盤の前に座るだろうか。あるいはそれをひっくり返したとして、それが哲学でないなどと誰が言えるだろうか。
◇
NHK出版新書・886円=5刷3万5千部。18年12月刊行。担当者は「本書は語りをまとめたので、読みやすい人が多いようだ」。『なぜ世界は存在しないのか』は12刷3万2千部。=朝日新聞2019年3月16日掲載
編集部一押し!
- とりあえず、茶を。 正体 千早茜 千早茜
-
- 韓国文学 ハン・ガン「菜食主義者」書評 肉を食べず、手の届かない世界へ 松永美穂
-
- インタビュー 石田月美さん「まだ、うまく眠れない」インタビュー 「私」の生きづらさを描いて、女として生きる痛みを伝えたい 若林理央
- 鴻巣友季子の文学潮流 鴻巣友季子の文学潮流(第18回) 「とるに足りない細部」などノーベル文学賞発表前に海外文学新翻訳の収穫を一気読み 鴻巣友季子
- インタビュー 星野源さん「いのちの車窓から 2」7年半ぶりエッセイ集 「逃げ恥」後に深まった孤独、至った結論は 朝日新聞文化部
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 令和の時代の〈村ホラー〉を楽しむ3冊 横溝正史的世界を鮮やかに転換 朝宮運河
- トピック 【直筆サイン入り】待望のシリーズ第2巻「誰が勇者を殺したか 預言の章」好書好日メルマガ読者5名様にプレゼント PR by KADOKAWA
- 結城真一郎さん「難問の多い料理店」インタビュー ゴーストレストランで探偵業、「ひょっとしたら本当にあるかも」 PR by 集英社
- インタビュー 読みきかせで注意すべき著作権のポイントは? 絵本作家の上野与志さんインタビュー PR by 文字・活字文化推進機構
- インタビュー 崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談 PR by 双葉社
- インタビュー 物語の主人公になりにくい仕事こそ描きたい 寺地はるなさん「こまどりたちが歌うなら」インタビュー PR by 集英社
- インタビュー 井上荒野さん「照子と瑠衣」インタビュー 世代を超えた痛快シスターフッドは、読む「生きる希望」 PR by 祥伝社