一番好きな食べ物は? そう尋ねられたら答えは一つ。卵、である。肉よりも魚よりも、キャビアよりもフォアグラよりも、卵。食べ方は問わない。
ふだんは母のつくる料理を黙って食べる父だったが、ゆで卵だけは絶対に半熟だった。何事もわりに大雑把な母は面倒臭がっていたが、わが家のキッチンタイマーはまさに半熟卵のためにあった。正確に時間を計ってゆでられた卵はそのままエッグスタンドに載せられ、大人も子どももスプーンが入る大きさまで、てっぺんからそっと殻をむく。そうして薄皮の下のふるふるした白身にスプーンを入れるときの緊張感といったら――。白身の下の黄身がねっとりとスプーンから垂れるぐらいの柔らかさがわが家の定番で、そこにほんの少し塩をふる。
ときどき時間を計り損ねて固ゆでになってしまうと、殻をむいて細かく刻み、マヨネーズと小さじ1杯の水で和(あ)えて、ふわふわの卵サンドのフィリングにする。子どもにはこちらのほうが嬉(うれ)しかったりもしたが、真剣勝負の半熟卵も失敗作の固ゆで卵も、どちらも家族の毎朝の食卓に、ひときわ賑(にぎ)やかな時間を刻んでいたのを思い出す。
そしてもちろん目玉焼きも。ハムエッグやベーコンエッグは、私にとっていまもトーストの最高のお供である。このときばかりは、健康に良くないものほど美味なのだと開き直って、卵は二つ。先(ま)ずはバターを塗ったトーストで半熟の黄身をすくいとるときから、至福のときは始まる。次いで塩気のきいたハムと少し焦げて脂のしみた白身を、トーストと一緒に味わう。それからまた黄身を。そうしてゆっくり楽しむ卵の歓(よろこ)びは、実はとてもプライベートな生理的歓びでもあるのだろう、このハムエッグとトーストのイングリッシュ・ブレックファストだけは、東京泊のときにホテルで1人、時間をかけて楽しむと決めている。
それから、卵といえばオムレツ。昔フレンチの輸入食材を扱う商社に勤めていた関係で、溶き卵にトリュフを入れ、一晩寝かせてつくったオムレツや、蒸したウニをたっぷり包んだオムレツなど、贅沢(ぜいたく)な美味も知ったけれども、本音を言えば卵と塩コショウと牛乳とバターだけでつくるシンプルなオムレツがいい。健康のために卵は一日一つと言われる時代なので、いまや滅多(めった)に食べないが、そのぶん舌が覚えている美味への憧れがつのるのだろう、いつでもオムレツがつくれるよう、私のキッチンには十分に油をなじませた直径22センチの鉄のフライパンがスタンバイしているし、冷蔵庫の卵のストックだけは欠かしたことがない。
そう、私の人生最後の晩餐(ばんさん)は、プレーンオムレツと決めている。しかも最後だから、卵は絶対に三つ!=朝日新聞2019年4月27日掲載
編集部一押し!
- 売れてる本 岩尾俊兵「世界は経営でできている」 無限に創造できる人生の価値 稲泉連
-
- インタビュー 鈴木純さんの写真絵本「シロツメクサはともだち」 あなたにはどう見える?身近な植物、五感を使って目を向けてみて 加治佐志津
-
- 小説家になりたい人が、なった人に聞いてみた。 【特別版】芥川賞・九段理江さん「芥川賞を獲るコツ、わかりました」 小説家になりたい人が、芥川賞作家になった人に聞いてみた。 清繭子
- 朝宮運河のホラーワールド渉猟 黒木あるじさん「春のたましい」インタビュー 祀られなくなった神は“ぐれる”かもしれない 朝宮運河
- コラム 三浦しをんさんエッセー集「しんがりで寝ています」 可笑しくも愛しい「日常」伝える 好書好日編集部
- インタビュー 「親ガチャの哲学」戸谷洋志さんインタビュー 生まれる環境は選べない。では、どう乗り越える? 篠原諄也
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(後編) 辞書は民主主義のよりどころ PR by 三省堂
- インタビュー 新井紀子さん×山本康一さん対談(前編) 「AI時代」の辞書の役割とは PR by 三省堂
- インタビュー 村山由佳さん「二人キリ」インタビュー 性愛の極北に至ったはみ出し者の純粋さに向き合う PR by 集英社
- 朝日ブックアカデミー 専門外の本を読もう 鈴木哲也・京大学術出版会編集長が語る「学術書の読み方」 PR by 京都大学学術出版会
- 朝日ブックアカデミー 獣医師の仕事に胸が熱く 藤岡陽子さんが語る執筆の舞台裏 「リラの花咲くけものみち」刊行記念トークイベント PR by 光文社
- 朝日ブックアカデミー 内なる読者を大切に 月村了衛さんが語る「作家とはなにか」 「半暮刻」刊行記念トークイベント PR by 双葉社