このサイトでのエッセイを、5月分、全4回の予定でお受けして、それぞれをテーマにあわせながらも、自分の中では一貫したモチーフとして、「宇宙」について書いてきた。とはいえ、宇宙について特別な思い出があるわけではない。
子供の頃から、辞書や辞典に比べて、自然科学の図鑑などにはあまり興味を示して来なかった。むさぼるように読んだ覚えもない。そんな自分でも親しんだ学習雑誌がある。それが、学研から出ている「○年の科学」「○年の学習」だった。
小学校に入ってどれくらいだったか忘れたけれど、女の子である私は「学習」を、2年上の兄には「科学」が毎月買い与えられ、下の子の特権として、兄の分までぺらぺらとめくって読んでいた。
詳しいことはほとんど覚えていない。ただ、いつも、「中身は学習の方が面白いけど、付録は科学の方が面白いな」と感じていた。氷と塩でジュースをアイスにしたり、ラジオをつくるキットがついてきたり。兄のものだから、私が楽しんでいるのもおかしな話なのだけれど。
子供を育てるようになって、そうした学習雑誌だって、毎月買い与えることは簡単なことではないとようやくわかるようになった。けれど、当時は特別なありがたみも感じずに流し読みをしていた気がする。宇宙のことや、恐竜のこと。科学のこと。
楽しんではいたつもりだけれど、身にはつかなかった、のかもしれない。いや、すっかり馴染んで、その雑誌から得たということも忘れてしまったのかも。でもその中で、忘れられない、特別な思い出がある。
「科学」と「学習」には年に数度、「○年生の読み物」という様々な「読み物」が集められた別冊があり、毎月の雑誌よりもよほど楽しみだった。宇宙のことや、恐竜のこと、科学のことは難しかったけれど、2歳背伸びをして読む「読み物」は、読み応えがあった。国語の教科書や、便覧、道徳の教科書なんかも夢中になって読む子供だったから。
あれは小学4年生の時だった、と思う。手に取ったのは、兄の「6年生の読み物」だった。その中の一編が、今も強く、心に残っている。
短いお話だった。兄がいて、妹がいて、二人は年に一度夏休みにおばあちゃんの元へ遊びにいく。けれどある時、主人公である妹が、「おばあちゃんが魔女である」ということを思い出し、今まで忘れていたのは、おばあちゃんが魔法をかけていたからだ、ということを兄から聞かされる。そして次の休みに遊びにいく時は、もうその魔法はいらないと、おばあちゃんに言おうと思う。それだけの、お話。
けれど、小学生だった私は、目の開くような感じがした。心がときめき、衝撃を受けた。あまりにドキドキして、誰かに伝えたいと、母親に丸々朗読した。
風呂に入っている親のドア越しに、脱衣所に体育座りをしながら、とびきり情感をこめて。母親の反応は芳しくなく、「こんなにすごい話なのに!」と少しだけ憤慨したことまで、よく覚えている。
何度か、人生のターニングポイントだと感じる物語との出会いがあるけれど、自分にとってはまさしくあの瞬間がそれだった。
人生の中で、人は、本に、物語にいつ出会うんだろう。
出会いはいつだって、望んだからやってくるわけではない。事故みたいなものかもしれない。
良いとも悪いともわからない。読書だけが全てではない、物語だけがいいものだとも思わない。けれど、
私にとっては、あれは、「科学」と「学習」が与えてくれた、物語という宇宙のビッグバンだった。