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「真実が揺らぐ時」書評 忘却と分断に抗した思考の軌跡

評者: 宇野重規 / 朝⽇新聞掲載:2019年05月25日
真実が揺らぐ時 ベルリンの壁崩壊から9.11まで 著者:トニー・ジャット 出版社:慶應義塾大学出版会 ジャンル:エッセイ

ISBN: 9784766424546
発売⽇: 2019/04/05
サイズ: 20cm/561,13p

真実が揺らぐ時 ベルリンの壁崩壊から9.11まで [著]トニー・ジャット

 公共的知識人という言葉が死語になって久しい。幅広い知識と教養を持ち、世界で起きる様々な出来事を分析し、評価する。その言葉や判断は、多くの読者にとっての思考の基準となる。そんな知識人のイメージに最も近かった一人に、トニー・ジャットがいる。
 ジャットは大著『ヨーロッパ戦後史』の著者であり、「ニューヨーク・レヴュー・オブ・ブックス」に寄稿し続けた書評家である。ヨーロッパに生まれ、アメリカで教鞭を執ったジャットがこの世を去って10年近くなるが、そんな彼がブレグジットやトランプ大統領を見たら何と言うか。ユダヤ人家庭に育ち、ヨーロッパとアメリカの不和と分裂に心を痛めた歴史家の意見を聞きたいと思うのは、評者ばかりであるまい。
 1989年に世界は大きく変わった。その変化はフランス革命に匹敵するが、奇妙なことに、人々は戦争と大量虐殺によって血塗られた20世紀の経験を忘却しつつあるとジャットはいう。残された人々には共有された文化も習慣もなく、世代や職業をつなぐ連続性や連帯もない。人々を突き動かす信念や記憶はモザイク状になり、人々をつなぐよりむしろ分断することに貢献している。
 そんな時代にあって、ジャットは懐疑主義や相対主義、日和見主義に陥ることなく、自らの道徳的判断を下そうとする。一例を挙げれば、ジャットはイスラエルとパレスチナが一国内で共存する「二国民国家」を、批判されつつも提示し続ける。ベルリンの壁崩壊以後のヨーロッパや、アメリカのエリートや知識人についての分析も苦いが、今日でもまったく適切性を失っていない。
 鉄道に象徴される公共的サービスや、国家の市民に対する責任についてのジャットの語りは、ノスタルジックな響きを伴う。この100年に世界が経験したこと、そして失ったものを振り返る上で大切な一冊であろう。
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 Tony Judt 1948~2010。ロンドン生まれ。元ニューヨーク大教授。著書に『失われた二〇世紀』など。