ISBN: 9784791771639
発売⽇: 2019/05/24
サイズ: 20cm/477p
高村光太郎の戦後 [著]中村稔
19世紀ドイツの法学者ギールケは、普仏戦争開戦直前の首都ベルリンで、「共同体の精神が、原始の力で、ほとんど官能的な形象を伴ってわれわれの前に発現し、……我々の個としての存在を感じさせなくなる」経験をしたという。同種の体験が日本では、共同体精神の特権的な表現人であった天皇を、表象として用いて語られる。
たとえば、真珠湾攻撃の一報をきいた体験を、詩人・高村光太郎は次のように回想している。「この容易ならぬ瞬間に/……昨日は遠い昔となり、/遠い昔が今となつた。/天皇あやふし。/ただこの一語が/私の一切を決定した。/……私の耳は祖先の声でみたされ、/陛下が、陛下がと/あへぐ意識は眩(めくるめ)いた。」(「暗愚小伝」から)
以降の高村は、共同体精神の卓越した表現人として、戦争を鼓舞する詩を書いた。少なからぬ若者がそれに励まされて死地に赴いた。そうした「世代」の文芸的精神の中に、いいだもも、村松剛の如き左右両極の批評家、最高裁判事を務めた大野正男、そして本書の著者・中村稔もいたのである。
戦後派としての彼らがそれぞれに格闘した「日本」という問題は、しかし、時局への加担者として「二律背反」に苦しんだ高村によっても、真摯な反省の対象となっていた。自らを「愚劣の典型」とみて、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあつて、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られてゐたか」を究明した、高村の「致命点摘発」の作業は、「暗愚小伝」を含む詩集『典型』に結実した。
中村稔は、詩人としても法律家としても、そうした高村に一貫して拘ってきた。その文学人生の最終盤に、高村の「戦後」といま一度腰を据えて取り組んだのが本書である。この重みを踏まえなければ、岩手・花巻郊外の言葉も通じない山中で、高村が独居生活した戦後の7年間を、何故「冗漫に耐えて」執拗に追体験しようとしているのかは、理解できない。
しかも感動的なのは、そうした地道な作業の結果、齢92歳の著者が、近著『高村光太郎論』でも披瀝された若き日からの持論を「あさはかな批評」と断じて、自ら改めるに至ったという事実である。
かねて評価した歌人斎藤茂吉の中に、中村は、「社会的存在としての人間の生」の視点の欠落を発見し、そうした他者を想定せずには成立しない「責任」の観念の蒸発が、戦争を賛美した過去に向き合う「知識人の責務」の欠如をもたらしていることに失望する。そして、これとの対比から、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建した実例を、かつて弁明のみ目についた『典型』に、慥(たし)かに見出すに至ったのである。
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なかむら・みのる 1927年生まれ。詩人・弁護士。「世代」同人。50年に第一詩集『無言歌』を出版。ほかの詩集に『鵜原抄』『羽虫の飛ぶ風景』、著書に『束の間の幻影』『私の昭和史』『回想の伊達得夫』など。