名著は問う、社会のいまを
このひと月は、ずっと大江健三郎ばかり読んでいる。
NHKのEテレに「100分de名著」という番組がある。9月に大江の長篇(ちょうへん)小説『燃えあがる緑の木』(新潮文庫)が取り上げられることとなり、僕が講師を担当するのだ。
『燃えあがる緑の木』は、3部から構成され、1993年から毎年1部ずつ文芸誌「新潮」に掲載された。いまでもよく覚えているが、大学生だった僕は、単行本化が待ちきれず、「新潮」を買って読んだ。
この長篇の第2部が刊行された94年に、大江はノーベル文学賞を受賞する。当時まだ日本語でしか読めなかったこの作品は、ノーベル賞につながる大江の国際的な評価には直接の貢献はしてないのかもしれない。
しかし、改めて読み直してみると、名著に値する作品だと痛感する。ほぼ四半世紀前に書かれたにもかかわらず、まるで古びておらず、それどころか僕たちの社会の〈いま〉に呼応するような問いかけがたくさん含まれていると感じられるほどだ。
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作品のいちばん大きな主題は、「魂のこと」である。作家自身のように具体的な信仰を持たぬ者は、いかなる宗教にも頼ることなく、いかにして魂の救済を想像しうるのか。
小説は、みずからの魂の問題に取り組むために四国の森のなかの土地に移り住んだ男の受難を描く。「ギー兄さん」と呼ばれる主人公は、「救い主」として教会を設立するのだが、この小説を通して、大江は〈宗教〉なるものがどのように誕生し、組織化されていくかを、壮大な構想力で再現しているようにも見える。
「救い主」の教団の一部が、教団施設を基地化して武装化していくあたりは、第3部が刊行された95年3月に、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたことを思うと、すぐれた小説のもつ予言的な力というものを考えさせずにはおかない。
また、「救い主」の教団は、四国にある原発(伊方原発であろう)の前まで行進して、そこで祈りの力によって原発停止を実現しようとする。
大江健三郎が『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)以来、核の廃絶を願って社会的な発言・活動を粘り強く続けてきた事実を思えば、このような場面が描かれているのは驚くべきことではないのかもしれない。
しかし、2011年の東日本大震災と福島の原発事故を経験したあとでは、この場面の僕たちの受けとめ方もまた、小説の刊行時以上に切実なものにならざるをえない。
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大江健三郎には、頭部に障害を持って生まれた光さんという子供がいる。この長男との共生が大江文学の中心にあることは、作家自身も認めるところだ。
障害のある人との共生を、おのれの文学的課題として引き受け、何十年にもわたって書き続けてきたという点でも、大江は稀有(けう)な作家である。
大江のすごみは、こうした主題を追求しつつ、いかに書くかというナラティブの問題についても高度に意識的であるところだ。
息子との共生を描き続けていれば、小説は社会から閉ざされた私小説的な色調を帯びてしまうかもしれない……。そこで大江は、さまざまな詩人たちを導きの糸として、詩を読むことが小説の物語を駆動させる独特の書き方を編み出したのだ。
つまり大江を読むとは、ブレイク、ダンテ、エリオットといった詩人たちの息吹に触れることであり、その風は作中で引用される世界文学の諸作品へと次々と扉を開いていく。「燃えあがる緑の木」という神秘的なイメージ自体、アイルランドの詩人イェーツの詩から着想を得ている。
だが、いま『燃えあがる緑の木』を読むとき、驚かされるのは、なんといっても小説の語り手「サッチャン」の人物像である。
サッチャンは、男性と女性の身体的特徴を共に備えた両性具有の人物なのだ。男として成長するが、ある時から女として生きることを決然と選び取り、「救い主」を支える。
彼女は身体的に両性具有という設定だが、よく考えれば、僕たちは精神的にはみな両性具有ではないか。誰のなかにも女性的なものと男性的なものが入り混じっているはずである。そのどちらがより〈自分〉であるかを決めるのは、国家でも社会でも家族でもなく、自分自身である。そのみずから〈選び取ったもの〉こそ、自分であると「言い張る」こと。
素晴らしい小説は、読み手をつねに鼓舞し、慰撫(いぶ)し、〈命〉の側へと押し出してくれる。=朝日新聞2019年7月31日掲載