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俵万智さんの歌集『サラダ記念日』のお気に入りの歌を教えた後から、空気がガラリと変わってしまった。
この空気を何とかしたい思いと、久々に回り始めた恋の歯車を止めたくない気持ちから、つい僕は先を急いでしまった。
「リカさん! せっかく仲良くなれたことだし、連絡先を教えてください。東京に帰ってからもまた飲みに行きませんか……」
しばしの沈黙。
しまった……! どうやら事態を悪化させてしまったようだ。
とにかく、いったん仕切り直したいと思った僕はトイレへと席を立つ。
気持ちを切り替えてトイレから戻ると、彼女の姿はなかった。
カウンターにあるのは、「お元気で」と書かれた1枚のコースター。
「『元気でね』マクドナルドの片隅に最後の手紙を書きあげており」
『サラダ記念日』の一首が脳裏をよぎる。
これが彼女の答えなのか……。
彼女は僕のお気に入りの歌のように、バーのカウンター席から立ち上がり、僕を捨てていってしまった。
何をやらかしてしまったのかもわからないまま、僕はホテルの部屋へと戻る。
ミニバーのウイスキーをナイトキャップに、トランクにあった『はじめての短歌』を手に取った。
有名な短歌や自由律の改悪例をパラパラと眺めながら、今夜のできごとを振り返る。
何がいけなかったのだろう……。
やはり、ズボンの尻ポケットに2冊も文庫本を入れていたのはやりすぎだったか。
それとも、お気に入りの短歌が彼女の感性に合わなかったのかもしれない。
でも、文庫本のカバーがずれたのを、カウンターの上で「トントントン」って揃えている彼女、可愛かったなあ……。
そんなことをぼんやり考えながら、手の中の文庫本のページをめくる。
パラっという、ページがめくれる音も好きだ。
どうやら僕は本にまつわる音がお好みらしい。
ちょっと待てよ、このネタ、次回の「俳句修行」で使えるかもしれない。
電話の横にあったメモ用紙に素早くメモを取る。
やがてページをめくる音は聞こえなくなり、僕のまぶたは重くなっていく。
もしも夢の中で彼女ともう一度逢えたら、別の短歌を選んでみようと思いながら、僕は深い眠りへと落ちていった。
―The End―
※この物語は村上さんの妄想をもとにしたフィクションです
フルポン村上のモテポイント
穂村弘さんの『はじめての短歌』(河出文庫)は短歌のハウツー本なんですけど、改悪例を紹介しているのがすごく面白いし、わかりやすいんです。
たとえば、高野公彦さんの「鯛焼の縁のばりなど面白きもののある世を父は去りたり」を例句に、「鯛焼の縁のばり」を「ほっかほかの鯛焼き」や「霜降りのレアステーキ」に変えて改悪の解説をしています。
「鯛焼の縁のばり」っていう、普通では見落としてしまうようなところを詠んだ方がよりリアリティーが増すし、その人にとっての思い出なんだとはっきりと焦点が合ってくる。そうすると、読者にとっての「鯛焼の縁のばり」にも触れていくんですよね。ある人にとっては、それは「もつ煮込みの最後のネギ」かもしれないし、人それぞれ「あれがちょっといいんだよね」っていうものがあると思います。
みんながいいって言わないものの方が実は人の感性を揺るがす。この本は技術的な部分じゃなくて、そんな感性の部分のハウツーを書いているんですよね。こういうものの見方をしたら、いろんなものが楽しく見えるだろうなって思えました。俳句も、ちょっと中心からずれた部分を見つけるようにしています。
だから、この本を読めば、モテなかった日の思い出も短歌や俳句にしてやろうと思えるんじゃないかな。「モテなかった。悲しい」は当たり前。でも、その悲しさの中で何が一番みじめだったかを具体的にうまく表せられれば作品になる。モテなかったということを、自分を作品の主人公にすることで超えていくんですよ。
(撮影協力:伽羅沙)