予定されていた海外ロケの仕事が急遽バラシになって3日分のスケジュールがぽっかりと空いた。
まとまった休みが取れるのも久しぶりだったので、迷わず旅に出る。海外ロケ用に準備していたトランクに、文庫本を2、3冊詰め込んで家を出た。
ひととおりの観光を楽しみ、ホテルのフロントで「ひとりで静かに飲めるところはないですか?」と尋ねると、とあるバーを紹介された。
ホテルの人にもらった地図をたよりに歩いていくと、静かな路地の片隅に「BAR」という文字が光に照らされ浮かび上がって見える。
入り口からは中の様子が見えないので少し入りづらい気もしたが、旅先という開放感も手伝って、思い切ってドアノブに手をかけた。
カランコロンーー。
カウンター席のみの小さなバーには、マスターと先客の女性がひとり。
ノースリーブからすらりと伸びる女性の白い腕にしばし見とれてしまう。
次の瞬間、彼女とバチっと目が合って、思わず視線をそらした。
気恥ずかしさを残したまま、彼女とスツール1つを隔てた席に腰を下ろし、マスターに「ジントニック」と告げる。
お酒を待つ間、手持ち無沙汰となった僕は、ズボンの尻ポケットから文庫本を取り出した。
鮮やかな黄色い表紙がこのバーにはポップすぎるなと思いつつも、残り十数ページとなった物語を読み進める。
本の世界へと入り込んで行くと、次第に先ほどの恥ずかしさは薄まっていった。
「ジントニックです。どうぞ」
マスターの声に顔を上げると、爽やかなライムの香りがするカクテルが目の前にあった。ひとくち飲むと、シュワシュワっとした喉越しが夏の夜に心地いい。
グラスをテーブルに置くと、何やら横からの視線を感じた。
彼女だ。
もしかして、フルーツポンチの村上だって気づかれたか。
途端に、先ほど消えたはずの恥ずかしさが再び込み上げてきた。
恥ずかしさと自意識を鎮めようと、彼女の視線を無視するように本に意識を集中させるが、うまくいかない。
「それ、『星の王子さま』ですか?」
「え? 」
突然、彼女に話しかけられて、さらにドキリとする。
「子どもの頃から大好きな作品なんです。王子さまとバラはどうしているかな、なんて今でも時折考えちゃいます」
パッと見は物静かで大人しそうな女性に見えたが、明るい声色と人懐っこそうな茶色い瞳に僕の警戒心はやわらいだ。どうやらフルポン村上だとは気づかれていないようだ。
「僕は小さい時に読んだっきりで、読み直しているところなんです。児童文学かと思っていたけど、大人こそ読むべき話。多様性とか、人生哲学的な話なんですよね」
人見知りで口下手な僕だが、好きな本のこととあって、饒舌になる。
そんな僕の話を嫌な顔一つせず聞いてくれて、こんなに自然体で話せるなんて、絶対いい人に違いない。
ひとしきり『星の王子さま』話に花を咲かせた後、ジントニックを口にすると、ほとんど水のようだった。
「マスター、同じものをもう一杯」
今夜はいつもより長い夜になりそうな予感がした。
――To be continued...(第2話はこちら)
※この物語は村上さんの妄想をもとにしたフィクションです
フルポン村上のモテポイント
「モテ文庫」の条件として、初対面の人との会話のきっかけになることは重要なんじゃないかなと思います。だから、「私もこの作品好き」とか「どんな話なの?」とか興味をもってもらえて話が盛り上がりそうな、わかりやすいところを狙ってみました。
もし相手が読んでなくても、「じゃあ、どうぞ読んでみてください」って、気軽に渡せるのも文庫本のいいところですよね。
『星の王子さま』(集英社文庫)は、読んだことがなくてもほとんどの人がなんとなく知っている一冊。
大人になって改めて読んでみると、生きることや多様性のこととか、すごく考えさせられることが書かれているんだけど、“教え”っぽくないところがいいんですよね。押し付けがましくなく読める。
この作品が好きだという女性とは、長い時間話すことができそうな気がします。
あと、きれいな世界が描かれているのも好きです。
最後、星の王子さまが自分の星に残したバラのもとに帰るために、地球を去って物語が終わるじゃないですか。それを受けて、「今度、一緒に星の王子さまを探しに行きませんか?」って冗談っぽく誘えますしね(笑)。たとえフラれてもダメージも少ないです。
(撮影協力:伽羅沙)