宮崎駿監督の作品で、最初に見たのは「天空の城ラピュタ」だった。少し古くなった映画を、「こども映画大会」みたいな名目で市のホールで上映されていたのを兄に連れて行ってもらったのだ。二本立ての企画で、同時上映は「スイミー」。会場では透明なプラスチックに映画のチラシがはさまっているだけの下敷きが、たしか250円ぐらいで販売されていた。牧歌的な時代だった。
小学生の低学年生だった僕が「天空の城ラピュタ」の内容、描写ややり取りの機微をどこまで理解していたかわからない。けれど、しばらくはその映画のことをずっと考え続けるほどに夢中になった。それから宮崎駿作品はずっと見てきた。
僕の通っていた学校には「図書」という時間があって、代本版をもってみんなで図書室に移動し好きな本を借りて読むというのがその内容だったのだけど、「魔女の宅急便」の原作本はいつも貸し出し中だった。たしか映画が封切された直後のことだ。
テレビ放映をしたものだったかVHSテープに録画された「魔女の宅急便」がうちにあって、10代の頃繰り返し観た。筋もおおむね頭に入っているのだけど、どこか「怖いもの」として記憶に残っていた。僕が怖さを感じた個所はだいたいわかっている。修行のために箒にまたがって街にやってきたキキが、それまで当たり前のように空を飛んでいたのに、飛び方を忘れ、飛べなくなってしまうくだりだ。当たり前にできていたことが、ある日できなくなる。その理由もきっかけも明確にはわからない。自分ではどうしょうもない。避けようもない。怖いことだ。
つい先日、所用があって岩手県の久慈まで車で向かった。その車中で僕は久しぶりに『魔女の宅急便』を観た。そうしながら、幼かった僕が何に恐怖を抱いたのかを思い出した。
「魔女は血で飛ぶんだって」
主人公である魔女のキキのセリフ。キキはこの時スランプに陥って飛べなくなっている。空を飛べる根拠は「血」という全く論理的ではないものであると明示される。要は生まれ時から備わっている才能について言っているのだ。少なくとも当時の僕はそう受け取った。
「魔女の血か・・・。いいね。私、そういうの好きよ。魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神様か誰かがくれた力なんだよね。おかげで苦労もするけどさ」
キキを励まそうとして、絵描きの女性はそう言う。その声を聴きながら、「でも、」と幼いころの僕は思っていた。「でも、もし自分が望む者になるための血が流れていなければ、すっかりダメということなんだろうか? 絶対になれないということだろうか」
宮崎監督の作品は時々こんな風に、ごろりと鋭い言葉が配置されている。全体的には「ワンダー」があふれているのだけれど、独特なすごみがある。そんなこんなもひっくるめて、子供のころから大好きだった。