ホテル内の全インテリアデザインは、香港在住のアメリカ人、ジョン・モーフォード氏が監修した。メンテナンスは随時行っているものの、基本的なデザインはそのままだ。このホテルのコンセプトである「タイムレス」を、空間全体が体現しているといえよう。
ところで、なぜここがインタビュー場所に選ばれたのかには理由がある。森鴎外の名作としても知られる古典『説経集 山椒太夫』の現代語訳をベースに大胆な解釈を加えた、吉田さんの新境地ともいえる『アンジュと頭獅王』は、パーク ハイアット 東京なしでは誕生しなかったからだ。
案内されたのは、「トーキョー スイート」。都心を一望できる絶景に、約1,000冊の蔵書を誇るプライベートライブラリーを備えた220㎡のスイートルームで、ソファからすっと立ち上がった吉田さんが、笑顔で迎え入れてくれた。
「僕が20代で文學界新人賞を受賞して作家デビューをしたばかりの頃、浅田彰さんがお祝いに食事でもと誘ってくれたのが、ここのメインダイニングだったんです」
大学時代から東京で暮らしていたものの、吉田さんは「ここで初めて“東京”というものに出合ったような気がする」と振り返る。このホテルにすっかり魅了され、折に触れて通うように。3年前、縁あってパーク ハイアット 東京の開業25周年を記念して、書き下ろし小説の執筆を依頼される。そこで、ホテルが出したリクエストは、「パーク ハイアット 東京のことを書くのではなく、パーク ハイアット 東京で書いてほしい」というものだった。
「『うちについて書いてほしい』と企業やハイブランドなどからエッセイを依頼されたことはありますが、このホテルはそうじゃなかった。20数年作家をやっている中で、全く新しい体験ができそうな期待もあって、書くことを決めました」
頭でひねり出すのではなく、ホテル内での体験を通して出てくるもので書こうと思った吉田さんは、ギリギリになってからようやく執筆をはじめた。途中まで書いたものを企画した編集者に見せたところ、「置きにいくな」と辛辣な一言を喰らった。無難で守りに入っているように見えたらしい。
「このホテルを舞台にした映画『ロスト・イン・トランスレーション』の日本版みたいな現代劇で、おしゃれな会話があって……、みたいなストーリーだったんです。確かにこんなの全然だめだった、とその原稿は捨てました(笑)」
1000年超えて読み継がれる古典 時を乗り越えて語り継がれてきたのは“本物”
改めて吉田さんがこのホテルを見つめ直した時、「タイムレス」というコンセプトが頭をよぎった。文学の世界に置き換えてみると、時間の超越とはすなわち、古典ではないかという考えに思い当たる。
「500年、1000年を超えてきたものを、自分なりに形にできないかと思ったんです。そして、その先にあるものや、本当に大切なものは何なのか? そういうものが書けないかと。そこで思い浮かんだのが『山椒太夫』でした」
原典は中世の説経節だったという同作。行方知れずとなった父親を探しに、安寿と厨子王という幼い姉弟が母とともに旅に出るものの、道中で人買いに騙されて親子離れ離れに売り飛ばされる。姉弟は強欲な長者の元で奴隷として過酷な日々を送るが、安寿は幼い弟を脱走させ、自らは拷問の末に殺されてしまう。逃げ延びた厨子王は、多くの人の助けを借りながら、家族の無念を晴らすべく懸命に生きようとするという物語だ。
「山椒太夫もそうですけど、実は古典って残酷なんですよ。人間の残酷なところを残酷なまま書いている。そこが魅力でもあるんです。僕も『悪人』や『怒り』、『犯罪小説集』などでわりと残酷なことを書いていて、そういう感想もよくいただくのですが、古典を読むと、これでいいんだって思えてくる。リアルなものをそのまま書いたことで、1000年読み継がれているわけですから、それも一つの正解なのだと」
吉田さんにとって、古典の現代語訳は初めての試みだった。しかし、歌舞伎の世界を描いた前作『国宝』(朝日新聞出版)を、講談調の文体で書いた経験が役に立ったという。本作では、アンジュの命がけの決断によって山椒太夫の元から逃げおおせた頭獅王が、今度は国分寺のお聖(ひじり)の決死の行動によって、疾走感を持って急展開を見せる。それまでは『山椒太夫』を踏襲した物語だったのが、頭獅王が抱き続ける家族への変わらぬ愛情と尊敬の念、姉弟に手を差し伸べてくれた人々の慈悲の心、善と悪の心など、あらゆるものが時空を超えていくさまは圧巻だ。
「本当に大切なものって、普通に生きていてもわからない。僕も50年生きてきて頑張って探そうとするものの、やっぱりわからない。でも、500年、1000年超えて残ったものなら、本当に大切なもののはず。『山椒太夫』にもそういうものはあったし、その現代語訳を通して、今、自分なりに見えているものを、現代の東京を舞台にオリジナルで書いていくというこの作品は一つの挑戦だったし、やれてよかったと感じています」
執筆の舞台となったパーク ハイアット 東京は、吉田さんにとっては大きな刺激となり、作品にもさまざまな影響を及ぼしたという。
「ここでなければ、後半の飛躍はなかった。東京一のラグジュアリーホテルの25周年記念の書き下ろし小説を古典でやるという飛躍ができたのもそう。自分の中でも勝負あったな、と感じました」
『山椒太夫』をベースにした実験的な本作と、パーク ハイアット 東京との意外な縁。吉田さんは「タイムレス」な空間に身を置いたことで、時代を超越しても残る大切なものの存在に気づくことができ、『アンジュと頭獅王』という物語へと結実していったのだ。
「遊園地で、自分では選ばないアトラクションに乗せてもらい、できない体験をさせてもらったような感じで、本当に楽しかったです」
「パーク ハイアット 東京のことを書くのではなく、パーク ハイアット 東京で書いてほしい」というホテルとの約束を果たした吉田さんだが、作品の中でホテルの存在を漂わせている。ぜひ小説を読んでその目で確かめてほしい。