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正岡子規「病牀六尺」 観たままを言葉にした改革者

まさおか・しき(1867~1902)。俳人、歌人

平田オリザが読む

 二葉亭四迷が新しい日本語の文体を生み出し、それを使って国木田独歩が『武蔵野』を書き、随筆の新境地を開いたころ、もう一人、東京の片隅で、病に伏せながら、日本語の散文を大きく前進させた男がいた。
 正岡子規である。
 俳句、短歌の革新ですでに名をなしつつあった子規は、日清戦争への従軍記者としての参加という無理がたたって、持病の結核を悪化させ外出もままならない身体となった。
 子規は、根岸の小さな家に母と妹と暮らし闘病生活を続ける。結核菌が背骨に入り脊椎(せきつい)カリエスを発症して、やがて寝返りも打てないほどの重症となった。またその痛みもすさまじかったようだ。しかし彼は、その寝たきりの小さな六畳一間から世界を描写する。
 「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」
 子規は、病床から観(み)る風景を克明に描写していく。何を食べ、何を飲み、誰に会ったか、主観を排した淡々とした記述が、逆に世界の広がりと、そこで懸命に生きる人間のけなげさを浮き彫りにする。
 俳句・短歌を確固とした文学の領域に位置づけた改革者として、子規は歴史に名を残した。しかし明治近代文学史の視点で語るなら、正岡子規のもう一つの功績は、この「写生文」の発見と完成にあった。
 観たまま、聴いたまま、そして思ったままを言葉にする。今では当たり前のことのようだが、それは当時の日本語では、とても難しいことだった。子規はそれを、病床の六畳間から、のびのびとやってのけた。
 彼は多くの弟子を育てたが、夏目漱石を文学の道に引きずり込んだことも後世への大きな功績だろう。特に晩年、ロンドン留学中の漱石と交わした書簡では、漱石もまた軽妙な文体を発展させている。正岡子規は一九○二年、三四歳で亡くなる。日本文学の夜明けを準備したような一生であった。=朝日新聞2019年10月5日掲載