この、詩人が初めて書いた物語の第一稿を読み終えた瞬間、全身に鳥肌がたち、「この作品は絶対に本にせねば」と固く決意したことや、打ち合わせで話に夢中になりすぎて、帰り際、喫茶店の天井から吊(つ)り下げられたスピーカーに頭をぶつけたことなど、当時を振り返ってみると、何かと興奮していた記憶がある。
ところが、最初に斉藤さんに送ったメールには、慎重な、そっけないくらいの文言が並んでいて、あまりにも記憶と食い違うので、これは自分の分身か影か、何かそんなものが書いたものだと思うことにした。
物語は、絶対に捕まるはずのない泥棒が捕まるところから始まる。どろぼんと名乗るこの泥棒には、持ち主が持っていることを忘れてしまった「もの」の声が聞こえるのだ。
読み進めている間ずっと、紡がれる言葉の切実さに心が揺さぶられ続け、その切実さはどこから来るのだろうと思っていたら、ある時、斉藤さんは、こんなことを言った。「自分が書くのは、自分が書かなかったら、なかったことになってしまうものなんです」
どろぼんに、忘れられた「もの」の声が聞こえたり、その他の作品で、灯台や猫といった人間の言葉を持たないものが主人公や語り手になったりするのは、だからなのか。そういえば子どもは、言葉を持たざるものの側に、より近い存在なんじゃないか。だから、この詩人は子どもたちに、物語を書くのだろうか。=朝日新聞2019年12月11日掲載
