お能についてだけ語った能楽論ではなく、人生論であり芸術論の側面もある『風姿花伝』は室町時代に能の大家である世阿弥が書き残したものだ。この作品自体のことは長らく知っていたが、手に取って読んだのは昨年のことだった。弾き語りライブツアーを終えて少し余裕ができ、ツアーを省みてステージに立つことの意味を改めて深く考えはじめたときに、その対談相手のような形で『風姿花伝』を本棚からピックアップして読み始めた。
能と音楽はもちろん違う部分もあるが、人前で芸・アートを表現して、お客さんとの間に何かしらの関係性を結ぶ意味では共通点もあるはずだ。僕にとってはこの作品は自らを省みるための大きな糧となった。『風姿花伝』は1400年くらいにまとめられたもので大きくは7つの章にわかれている。そのなかでも、僕がまず心惹かれたのはこんなセンテンスだ。
「そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさんこと、寿福増長(じゅふくぞうちょう)の基(もとい)、遐齢延年(かれいえんねん)の方なるべし。窮め窮めては、諸道ことごとく寿福延長ならんとなり」
(そもそも芸能というものは、人々の心を楽しませ、貴賤いずれの心も動かすものであり、幸福を増進し寿命を延ばす基となるべきものだ。突き詰めてみれば、芸能はいずれもそのような役割をもっている)「第五奥儀云」
特にこのなかの「寿福増長」という言葉はエンターテインメントの本質をついているのかもしれないと感じた。人々を楽しませて「寿福増長」を願うことの感覚は僕も一人のミュージシャンとしてもちろん共感できる。だが、同時に芸能はそれを甘く切なく願うだけの態度では演者は人々をとても楽しませることができるわけでもないだろう。事実、この『風姿花伝』は次のように続くのだ。
「この寿福増長のたしなみと申せばとて、ひたすら世間の理(ことわり)にかかりて、若欲心(もしよくしん)に住せば、これ、第一、道の廃(すた)るべき因縁なり。道のためのたしなみには、寿福増長あるべし。寿福のためのたしなみには、道まさに廃るべし。道廃らば、寿福おのづから滅すべし。正直円明(しょうじきえんみょう)にして世上万徳(せじょうばんとく)の妙花を開く因縁なりと、たしなむべし」
(寿福増長をこころがけることが大切だからといって、世俗の道理にとらわれ、欲に執着すれば、芸道が廃れる原因となる。芸道繁栄のための配慮であれば、結果として寿福増長は得られるが、寿福増長を主眼として目指せば芸道は廃れる。芸道が廃れれば座も成り立たない。正直で円満であることが、世間的なあらゆる徳をもたらす原因となると心得るべきである)「第五奥儀云」
これはとても厳しいことを言われている気がした。そしてこのくだりを読んだときに、ふと何故か落語の立川志の輔師匠がある番組でいっていたことを思い出していた。それは自らが目指すべき落語とは芸術なのか芸能なのかということだった。自分の持っている個性を信じて、自分が表現したいことを自由に発現する「芸術」なのか、見てくれているお客さんとの関係性を大切にして、そのお客さんを楽しませる「芸能」なのか、そんな二つの間を直前まで揺れ動きながら高座にあがる刹那にどちらに重心をおくのか肚をくくる。そんな趣旨のことを言われていたと思う。
「花」を咲かせていくためにこそ
世阿弥は「花」という言葉を喩えとして芸能に必要とされるエッセンスを論じる。
「いかなる名木なりとも、花の咲かぬ時の木をや見ん」
(どんな名木も花が咲いていないときを賞翫(しょうがん)するだろうか)「第三問答条々」
どれほどの名木であっても花が咲いていなければ鑑賞しないだろう。人は花が咲いているのを観に行くものだ。この言葉は深くささってきた。しかし僕はソロになったばかりの頃「禅」という考え方をすこし学んだ影響もあるのだろうが、物事を裏返して考える習性がある。そして世阿弥のこのくだりは、花を喩えとして語りながらも、その大元である木がそもそもしっかりとしたものでなければならないと静かに語りかけてきている感じがした。つまり花にばかり囚われてはいけない。灼熱や風雪に耐えることのできる木は根本がしっかりとしており、そしてそれは日々の着実な修行があってこそなのだろう。
その季節季節で咲く花がある。それと同じように、たとえば15歳で始めた芸も青年、壮年、老年となるにつれて当然変化していくことになる。これはいわば自然なことなのだろう。そういう時間軸で、そしてもう一方でお客さんの希望に応じて、その求める季節の花を咲かせねばならないのもまた演ずる側、アーティストのつとめでもある。お客さんが春の花を求めているのに、秋の花を咲かせてしまえばそれはただの独善的な花になってしまう。
さて、僕自身はどんな花を咲かせていくべきか、そんなことを考えはじめている。つい最近30代に別れを告げて40歳を迎えることができた。これまで音楽活動をしてこれたことに深く感謝しつつも、新たな花をもちろん咲かせていくつもりだ。いろいろと考えた結果として、相矛盾するかもしれないがこれまで咲かせてきた花を素直に受け入れると同時に、それらの花を捨てるくらいの気持ちで臨んでいくことも大切だろう。
もちろん常にいろんな葛藤はある。ただ、こうした葛藤やいろんな矛盾に自分が引き裂かれることが案外大切なことだと思い始めているのだ。相反する思いをすぐに観ないふりをするのではなく、しっかりと留めて向き合い、そして考えていく。矛盾ゆえに起きる摩擦は自分自身の戦いであり、それから逃れることはどうもできそうもない。
「オオカミ青年」のこれから
いまから10年ほど前になるだろうか「オオカミ青年」という曲で僕は実質的にソロデビューをした。一人の人間として生きること、でも、同時に群れのなかでも生きねばらないこと、そんな葛藤をオオカミと羊にたとえながら歌った。あれから10年たってみて、その間いろいろと学ばせてもらったことでさらに違ったものが見えてきている。
新しい花は、ときにもしかしたらそれは多少なりともトゲのある花にもなるかもしれないし、これまで歌ってこなかったようなものにもトライすることになる。そうやって前へと進んでいきたい。ただ、僕はミュージシャンであり、そしてエンターテインメントの世界に生きることは忘れてはいない。だからいつだって「面白さ」という花を咲かせることも忘れないようにもしているつもりだ。そして、『風姿花伝』の次の言葉も大切に受け止めておきたい。
「風体・形木(かたぎ)は面々各々(めんめんかくかく)なれども面白きところはいづれにもわたるべし。この面白しと見るは花なるべし」
(芸風とその基礎となる型は、人それぞれ別だが面白いところは共通である。この、面白いと感じられるところが花である)「第五奥義云」
※いずれも引用は『【新訳】風姿花伝 六百年の歳月を超えて伝えられる極上の芸術論・人生論』(PHP研究所)より