昨年12月、アフガニスタンで銃撃され、73歳で亡くなったNGO「ペシャワール会」(事務局・福岡市)の医師、中村哲さんは、泥沼の戦乱の中で非武装を貫いた。人々の信頼を得て活動を続けてきたその存在は、紛争地取材をしてきた私にとっても大変な励みになっていた。中村さんが襲撃された際、武装した護衛を付けていたことは意外に思った。2008年に同会の伊藤和也さんが拉致・殺害されて以降、現地政府の意向で護衛を伴うようになったという。
私はイラク取材中に民間軍事会社の護衛で移動したことがある。それぞれ武装要員が乗る3台の防弾車の2台目の後部座席に私が乗った。先頭車両の助手席は護衛チームのリーダーが座り、進行方向の他の車の状況などをチームに無線で共有して指示する最も重要な場所だ。
今回は防弾車でない2台だけで、狙われやすい1台目のリーダーの席に中村さん。武装要員ら4人は2台目に乗っていたという。中村さんを狙う襲撃計画を現地州政府が察知し本人に伝えていたというが、護衛の体をなしていないように見える。
現地にこだわり
中村さんはなぜ現地にこだわったのか。『アフガニスタンの診療所から』によると、1978年に登山隊に参加して初めてパキスタンを訪れた際、山岳地帯で自給自足の暮らしをする村々で、一目で病人と分かる人に追いすがられながらも見捨てざるを得ず、職業人として「深い傷になって残った」という。
この後、アフガンに接するパキスタンのペシャワルの病院にハンセン病対策支援で着任。絶望的な状況におかれた患者たちの無残な姿に接して苦悩し、人々により深く寄り添っていく。
79年にアフガンに侵攻したソ連軍の撤退が88年に決まると復興支援ラッシュとなったが、91年の湾岸戦争の勃発で欧米人は「あっさりと現地を見捨てて」去っていく。逆に中村さんはアフガンの山岳地帯に診療所を設け、武力抗争や略奪が横行する中でも「決死の覚悟」で非武装を徹底し、「よそ者」を警戒する村人からの信頼を得る。「非武装がもっとも安価で強力な武器」の境地に達した瞬間だ。
60万人救う事業
『医者 井戸を掘る』は、2000年からのアフガンの大干ばつの対策として行った枯れた井戸を掘り返す事業の記録だ。06年までに1600本の井戸を掘った。100万人が飢えようとしている危機にもかかわらず、タリバーン政権を認めない国際社会は制裁を決議。怒るタリバーンはバーミヤンの石仏を破壊し、ますます孤立して外国人が次々去る。しかし、中村さんは「見捨てない」と首都カブールでの診療計画に乗り出す。
『天、共に在り』ではアフガンの砂漠化した大地に用水路を通し、1万6千ヘクタールの農地を潤して60万人の命を救う大事業が展開される。だが、01年に侵攻した米軍による「対テロ戦争」はモスクや学校の誤爆が続き、「反感と復讐(ふくしゅう)心を人々の間に増幅」させ、治安は悪化の一途をたどる。水利権や土地をめぐる対立もあり、情勢は複雑だ。
08年、日本人撤退を決めたが伊藤さんが殺害された。だが中村さんは現地職員に「見捨てることはない」と語りかける。実は前後して現地スタッフも2人殺害されている。現地で生きるしかない住民がいる。自分が危険になったとしても離れるわけにはいかなかったのだろう。
01年以降、米兵はアフガンで2200人以上戦死した。武装すればそれ以上の武力で襲われる。狙われれば防ぎようはない。護衛は周囲に対する威嚇で市民を誤射することもある。中村さんは本心では護衛を望まず、あくまで人々を信頼する姿勢を貫くため“丸腰”のような護衛体制だったのではないか。=朝日新聞2020年1月25日掲載