幕末・維新変革期の政治は、理念と力のせめぎ合いのなかでの知の格闘でもあった。山室信一『法制官僚の時代』は、明治国家の設計者・井上毅と自由民権の主導者・中江兆民の、敵対と敬意が交錯する間柄に焦点を合わせる。研究職経歴の出発点に立っていた一九八四年の著者は、若書きとも見える筆の運びに乗せて、しかし、二人の思考がそれぞれの内側に抱える緊張のひだを、慎重に腑(ふ)分けして見せる。
「君主ハ臣民ノ良心ノ自由ニ干渉セズ」と立憲政を定義し、教育勅語を「政事上」でなく「社会上ノ君主ノ著作公告」(総理大臣山縣伯ヘ与フル意見)と考える井上は、しかしもとより、民権を抑圧する政権の中枢頭脳だった。政権との闘争の陣頭に立つ兆民は、しかし、「井上毅君、今や則(すなわ)ち亡し」と愛惜の情を書き残す(『一年有半』)。「自陣営への裏切りにもなりかねないギリギリのところで相通じ合っていた」「知の共和国」それ自体は、いっときの光芒(こうぼう)を歴史に遺(のこ)して消える。それにしても、対陣する二人が共有する「絶望的な生真面目さ」は今どこに行ってしまったのか。
湛山の先見の明
「明治」を送り「大正」を迎えた一九一二年、国家=法人の一機関として天皇の法的地位を説明する美濃部学説が、憲法論争を制して大正デモクラシーを支える。
その年、在野の論客・石橋湛山は説く(『石橋湛山評論集』)。――「人が国家を形づくる」のは、「人類」、「個人」そして「人間として生きるため」なのだ(一九一二)。「奥に潜む人類の心の働き」「真理」として「元来主権は国民全体にあったのである、それをただ円滑に働かしむるものが代議政治である」(一九一五)。
これは殆(ほと)んど、日本国憲法前文の下書きではないか。その憲法の下で自民党第二代総裁として彼が首相の座につくのは、歴史の必然とも言えた。それだけではない。「大日本主義の幻想」を戒(いま)しめ「一切を棄つるの覚悟」(一九二一)を説いていた石橋は誰よりも、憲法九条に託された可能性の意味を受けとめることができたのではないか。
しかし、その彼が病を得て退いた後を襲った岸信介政権が、「押しつけられた憲法」論の系譜を同じ党内に残すこととなり、「戦後民主主義」は価値争奪の渦中に置かれる。
三谷太一郎『戦後民主主義をどう生きるか』は、幕末以降、内乱を含め幾つかの「戦後」こそが権力形態の民主化をもたらしてきたという政治史的事実に注意を促した上で、一九四五年後の意味を際立たせる。著者は、生活信条としての「私の個人主義」(漱石)が日本人の間に広く共有されるようになったことを積極的に意味づけ、しかし「政治社会の組織原理」とまではなってこなかったところに、肝要な問題性を読みとる。
個人主義の内実
著者の指摘を私なりに受けとめて言えば、「私の個人主義」が「私」の空間にとどまり、もっと言えばそのこと自体が、公共空間で「政治社会の組織原理」を担う個人であろうとすることの足を引っぱってきたこと、が問題なのだった。
ここで兆民に戻ってその表現を借りるなら、「政権ヲ以テ全国人民ノ公有物ト為(な)シ一二有司ニ私セザル」ものとする政治社会の組織原理が、「公」の「私」化(「公」の領分に「私」を送り込む)と、それにとどまらぬ「私」の「公」化(「私」のために「公」の領分を使う)によって、貶(おとし)められている。その中にあってなお、「今日の『戦後民主主義』の最大の課題は、それを歴史上最後の『戦後民主主義』とすることである」と結ぶ三谷の言葉の意味は深く、そして重い。=朝日新聞2020年5月2日掲載