テーブル囲まぬ議論のかたち
どうやらコロナ以前とコロナ以後では、社会のあり方、そしてコミュニケーションのあり方が大きく変化することになりそうだ。
コロナ感染の拡大が続くなか、多くの仕事がリモートワークに切り替わり、大学では一斉に遠隔授業の試みが始まっている。さまざまな混乱と戸惑いが生じる一方で、意外にもオンラインで十分に仕事や授業は成り立つのではないか、今後もこの方が手っ取り早くていいのではないか、という声も聞かれる。しかし、その「手っ取り早い」コミュニケーションからこぼれ落ちるものがあるとしたら、それは一体何だろうか。
政治思想家のハンナ・アーレント(1906~75)は『人間の条件』のなかで、人々が複数的な意見を交わし合うことを「活動」と呼び、「公共性」のかなめに据えた。異なる意見を持つ人々が同じ空間に集い、共通の問題について議論する。それを通じて、同じ世界でどのように共生していくかを考える。それこそが政治であり、公共性の実現だと彼女は考えた。その際、物理的空間を共有することが、「活動」のための重要な条件になる、とも付け加えている。
アーレントはこれを、テーブルを囲んで話し合いをすることに例えた。同じテーブルを囲んで別々の席につく。するとわれわれはテーブルを介して互いに結びつきながら、異なる視点を保持し、かつ一定の距離を保っていることになる。こうした「介在物in―between」を通じて共通の関心事(コモン)について異なる意見を交わし合うことこそが、公共性=複数性の実現であるとアーレントは考えたのだ。
オンラインで実現しにくいのは、まさにこのような「活動」のあり方である。インターネットは良くも悪くも、人々を直接的に結びつける。そこでは物理的な距離が無効化され、われわれは「介在物」なしに他者と直面しなければならない。公的空間と私的空間の境目がなくなるなかで、他者との適切な距離を保ちながら、問題関心を共有し、かつ複数性を保った議論を重ねていくことは容易ではない。そうしたときにわれわれは、人々を「結びつけつつ分離する介在物」の重要性に改めて気づくのではないか。
もう一人、コロナ時代に想起せざるを得ない政治思想家は、アーレントと同時代人のカール・シュミット(1888~1985)である。法哲学者であったシュミットは『政治神学』のなかで「例外状態において決断を下す者こそが主権者である」という有名なテーゼを唱えた。現在、各国で「非常事態宣言」が発令され、集会の自由や行動の自由などの「私権」が制限される事態が生じている。まさにシュミット的な例外状態の到来と主権者の決断をわれわれは目の当たりにしている。感染拡大阻止のためにやむを得ない状況とは言え、そのような国家権力のせり出しに対する警戒も忘れてはならないだろう。
1930年代にナチスが政権を握った際、シュミットはそれを支持し、立憲主義を破壊する全権委任法の成立を正当化する法理論を提供した。コロナ感染の長期化が予想されるなか、世界中で「非常事態」が常態化する可能性も出てきた。各国の指導者が「コロナとの戦い」に戦争の比喩を用い、国民の一致団結を求める姿も印象的だ。強大な国家権力(垂直性)に対して無媒介なオンラインのつながり(水平性)は十分な歯止めになりうるだろうか。
今日、シュミット的な主権者の再来とアーレント的な公共性の欠如が生じているのだとすれば、われわれはその政治的帰結にも警戒的であるべきだ。シュミットと同じドイツ出身で、しかしユダヤ人であったアーレントが、ナチスの迫害を逃れて長い亡命生活を送り、戦後、全体主義に対抗する政治として「複数的な公共性」を構想したことの意味をいま一度振り返らねばならない。=朝日新聞2020年5月13日掲載