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柚木麻子さんが30年以上使い続けているハンドミキサー ケーキを焼くたび思い浮かべる母のこと

ハンドミキサー「SURE HM-80」(石崎製作所提供)

 ラジオから流れるニュースに腹を立てながら、ハンドミキサーで卵白をツノが立つまで泡立てている。今日のレシピはtwitterでみつけたなかしましほさんのバターカステラだ。甘いにおいが部屋中に漂ってくると、育児家事仕事何一つ終わっていないのに、なんだか胸がせいせいするような気がしてくる。

 外出自粛の影響で、ケーキやクッキーを焼き始める友達が男女問わず増えた。ネット上では、在宅でお菓子作りできるなんて恵まれている、手作りおやつをSNSに乗せる行為はマウンティングではないか、なんて声もちらほら聞こえて来るが、この状況下でのお菓子作りは自己満足とはちょっと種類が違う気がする。現状に対する怒りや苛立ちが、せめて一日のうちになにかひとつでもクリエイティブな行為がしたい、という欲求に結びついて、卵や粉をかき混ぜさせるんだろうと思う。以前、洋菓子メーカーで働いていたこともあって、初心者は何から揃えるべきか、という質問をLINEで友達からよくされるが、最初に一つ買うならハンドミキサーを断然おすすめする。泡立てさえ機械にやってもらえれば、卵ベースのふんわりしたケーキ生地はほぼ失敗なく作れる。それに旬の果物やクリームで飾れば、ものすごく「映え」るので、次々にあれもこれもチャレンジしたくなること請け合いである。

 私には物心ついた時からほとんどずっと付き合っている家電が一つだけある。それがこのハンドミキサーだ。今回原稿を書くにあたって、改めて手にとってまじまじと見つめてみた。型番はSURE HM-80、石崎製作所製造とある。まさかこの「80」って製造開始年ではないだろうな……。それだと、私が生まれる一年前ということになる。

 記憶を辿る限り、もともとは明るいピンク色だったのが、年月を経て朱がかかったベージュに変色している。ぽってりとした台形のフォルムで手で持つところだけ大きな空洞になっている。一言でいうと、ディズニーランドのトゥモローランドっぽい風貌だ。かつて人々が夢見た、現在はもうとうに追い越された未来、というようなイメージ。80年代が舞台のテレビドラマを今撮影するとしたら、ぜひ、小道具として提供したいようなデザインである。多機能を搭載した最近のそれに比べると、見かけ同様、使い方もシンプルだ。コンセントを差しスイッチを入れるとミキサー刃が回転して、鉄のようなにおいがぷーんと、辺りに広がる。この時点でかなり危険なのかもしれないが、そういえば、中学生くらいからこのにおいはしていたので、気にしないことにする。最近のものに比べると断然、音は大きいかもしれない。うちの子どもが顔をしかめて両耳を抑えるくらいである。

 私が幼稚園の頃、母はいつもこのハンドミキサーを使ってお菓子を焼いてくれた。シフォンケーキ、パウンドケーキ、シュークリーム。どれも素材のやさしい味がして美味しかった。小学生になると「ひとりでできるもん!」「わかったさん」に夢中になったせいもあり、自分でも作りたくなって、いつの間にかハンドミキサーは私のものになった。以来、使い続けて三十年以上になるが、一度も調子が悪くなったことはない。なだらかな曲線の持ち手をにぎりしめると腕の延長線になったみたいにしっくりとなじみ、今日のケーキもうまくいくぞ、という自信がみなぎってくる。

 今回、ドキドキしながら石崎製作所さんに電話をかけ商品名を告げたら、83年製造開始で87年に廃番が決定した型だそうだ。現在もなお使い続けていることについては、機械の内部が劣化でどうなっているかはわからないので、オススメはまったくできないそうである。

 家から一歩もでない日々、ケーキを焼くたびに思い浮かべるのは、感染を避けるためにずっと会っていない母のことである。

 よく考えたら、母はそもそも、うちで何か作るのが向いている性格ではないのである。コミュニケーション能力に優れていて、なにごとも先回りして準備し、外に出るの方が好きなタイプだ。私が独立したタイミングと前後して、別居して一人で暮らすようになった母は、その後お菓子を焼いたことは一度もないそうである。

 今回初めて、どんな気持ちであの時、ケーキを焼いていたのか、あのハンドミキサーはいつ買ったのか、電話で母に質問してみた。まだあれ使っているの!?ヤバくない?と驚かれると同時に、意外な答えが返ってきた。

 「お菓子作りなんて子どもが出来るまでほとんどやったことなかったけど、あなたも喜ぶし、おすそわけしたら褒められて嬉しかった」
 「あなたが読んでいる絵本に、お母さんがお菓子を焼く描写がたくさんでてきたから、やってみようと思った」
 「お菓子作りをなんとなくやらなくなったのは、あなたのほうが作るがうまくなったからだ」
「あの頃は料理研究家といえば、飯田深雪先生一択で、すごく立派な飯田先生の本を一冊だけ買って、それと首っぴきでやっていた。栗原はるみさんとか有元葉子さんはもっとあとだよ」

 飯田深雪先生!? もしかして、クラシックな美味しさで仕上がりも美しいけれど、気が遠くなるほど丁寧な工程で有名な、あの大御所の…。80年代前半とはレシピにも多様性がない時代だったのである。

 「バターを白くなるまで練ったり、卵を卵黄と淡白別々に泡立てろっていう工程が、どうしても面倒で、泡立て器で自力でやることが推奨されていたけど、とにかくミキサーを買わなきゃどうにもならないと思った」
くだんのハンドミキサーは私が幼稚園に通っている頃、85年前後に購入したのだという。なんか回転する時、鉄の匂いがするんだよね、と告げると、絶対もう使わない方がいいよ!と釘を刺された。

 実をいえば、ハンドミキサーと私の蜜月には二年ほどのブランクがある。

 社会人になってからしばらくして一人暮らしを始めた。オーブンなんてとても買える経済状態ではないし、仕事が終わってからお菓子が焼ける余裕が出来るなんて想像もつかなかったので、お菓子作り道具一式は置いていった。しかし、商品開発室という職場柄、先輩たちはみんな、息をするように自宅でお菓子を焼いていて、仕事と趣味の延長のように、よく会社にもってきては分けてくれたのである。オーブンがないから無理かな…と尻込みする私に、先輩たちはむしろ驚いていた。「電子レンジとフライパンならあるでしょ? なら余裕だよ」いろいろなレシピを教えてもらって、勇気がでてくるも、実家に道具を取りに帰るのはおっくうだった。母が出て行ったせいで、実家は帰りにくい場所になっていた。

 父が一人で暮らすマンションは、不潔ということはないが、なげやりな心持ちとタバコの臭いが染み付いていて、長くいたいものではなかった。

 昔から、悪い人ではないが、向き合うには気合と勇気がいる相手だったし、引き止められるのが怖かった。薄情だと思われてもいい。私は腹をくくって、まだ居てほしそうな父の前から早々に腰をあげると、ハンドミキサーと愛用のガラスのボールを抱えて、一人暮らしするアパートに飛んで帰った。ところが家に帰ると、あれだけ丈夫に思えたボールはまっぷたつに割れていたのである。しかし、ハンドミキサーは無事であった。それから間もなくして父が亡くなった。

 あの日、ハンドミキサーを持ってかえったことは、今にして思えば、私の大事な思い出を無傷のまま救出することだったのだと思う。何度ぶつけても、どんなに粗末に扱っても、絶対に回転をやめないミキサーは、なんだか私自身のようでもあるし、ちょっと母にも似ているような気がするのである。