芥川賞を史上最高齢の75歳で受賞してから、7年あまり。作家、黒田夏子さんの新刊『組曲 わすれこうじ』(新潮社)は、受賞後に書き始めた17の短編を再編成した、初めての新作小説集だ。受賞作「abさんご」と同じ横書きのスタイルで、日本語表現の新たな地平をひとり突き進む。
75歳で新人としてデビューする前も、10年に1作を仕上げる「マイペースじゃなきゃ書けないタイプ」だった。受賞直後はエッセーの依頼が相次いだが、出した小説は40代で書いた過去作を改稿した『感受体のおどり』(文芸春秋)のみ。慌ただしさとは無縁だった。
「年齢的にも、無理に締め切りをせかしても書けないだろうなと、思いやってくださったのだと思います。その時にはもう、いわゆる後期高齢者だったわけですから」。一方、「ぽつん、ぽつんとあちこちに、自分では後で長いものにまとめようというつもりで書いていた」のが、タイトルに組曲を冠した本作だ。
物語は、家庭の事情で「二代まえの血族」の家にあずけられ、「養育がかり」に育てられている「幼年」の視点でつづられる。ところが「幼年」はすでに「老年」といえる年齢になっていて、「ひながた」と呼ばれる「縮尺がんぐ」など身の回りにあったものをたよりに、幼い頃のおぼろげな記憶をたどっている。
「記憶と忘却と。それも二つに分かれるんじゃなくて、何歳のときに何歳のことを思いだしたかで、記憶そのものも変形していく。そのあたりのもやもやした複雑な変化には非常に興味があって」。自身は幼い頃のことを「比較的覚えているほう」だという。背景には、4歳のときに亡くなった母親の存在がある。
「親が生きていたときと死んだ後では生活状態がちがうし、親は肺病で都内から小田原に転地したから、移り住んだのがいつか大人になればわかる。それが一つの助けになっていて」。だが、覚えていることと理解できたことは別だ。そこに記憶の不思議はある。
「情景とかでぼんやり覚えているけど、そのときにはわからなくて、それを後になって分析していく。たいてい記憶ってそんなものじゃないでしょうか」
ひらがなを多用する小説の文章に、人名地名は一つも出てこない。人物の性別も明かされず、ゆえに「彼/彼女」といった代名詞も一切ない。その独自のスタイルは、そもそも横書きを選んだ理由と地続きだ。
「いわゆる文学作品の慣習をひとまず取り払って、元々に戻ってやってみたいというのが初めのきっかけです」。それが、「かなりこまかい原則を決めてやっている」という言葉選びにつながっていく。
その象徴といえるのが、小説のなかで使われる「なよびか」「うつつなく」といった古い言葉だ。「もし自然に大和言葉で言えるなら、漢語の熟語みたいなものは使わないで、言い換えてみたい」。こだわりはそのまま、日本語とは何かを問い直すことにもなる。
「動詞は、ほとんどひらがなにしても大丈夫。ただ、形容詞や形容動詞は表意文字のニュアンスが出てしまうわけだから、かなにしちゃうと受け取りにくいことも多くて……」。それゆえ古語の出番となる。
「漢字かな交じり文というものにそのまま乗りたくはない。自分はいったい、この言葉をかなにしたいのか漢字にしたいのか、いちいち問い直しながら使っていこうと。それでやたらに暇がかかるんですけどね」。83歳の前衛小説家は、歩みを止めていない。(山崎聡)=朝日新聞2020年7月29日掲載