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深緑野分さんが幼少期に繰り返し見た「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」 美しくて残酷でハラハラドキドキ

©THE JIM HENSON COMPANY

 現実と想像世界の境界線が曖昧で、すぐあっち側へ行ってしまう子どもだった。恐竜がマンションの前を歩いている幻覚を見るほど怖がりで、鮮やかでスペクタクルでどこまでも続く悪夢にうなされ、花咲く庭で姉と一緒に妖精を探し、車止めをガリオン船の欄干に見立てて海賊のつもりになっていた。一歩踏み出せばサメやライオンや青い顔をした猿やゴジラがいて、襲いかかられ、家族や友達は私を置いて死んでしまう。
 空想家は元々の性質なのか、映画マニアの父と読書家の母の教育による後天的なものなのかはわからない。ただ、もやもやしていたり巨大すぎて把握できなかったりするイメージを、言語化しお話に形を変えたりできるようになったのは、数々の作品を摂取したおかげだと思う。

 そんな子どもだった私が出会った「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」について、どこからどう話せばいいのか……これまでもあちこちで触れてはいるけれど、あまりにも自分の根幹すぎて、うまく説明できる自信がない。確かNHKで放送していて、父がVHSに録画したものをすぐに見せてもらった。私は幼稚園児だった。ジム・ヘンソンはアメリカの特殊造形師で、セサミ・ストリートのビッグバードやエルモなどなどを作った人である。「ラビリンス 魔王の迷宮」は彼の監督作。そのジム・ヘンソンがクリーチャーを制作し、名監督アンソニー・ミンゲラが脚本を書き、米英合同で作ったミニドラマシリーズが「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」だ。

 荒涼とした恐ろしげな灰色の山を、金の輪を持ったカラスが飛び、ストーリーテラーの老人の語りから番組がはじまる。幼い私は前のめりで、画面の中のしゃべる犬と一緒になって耳を傾ける。すると、部屋の壁にかかっていた絵の中で人影が歩き出し、何もかもなくしたけれど元気な退役兵の姿になる。兵士は老人に親切にしてやり、絶対に負けないトランプカードと命じれば何でも入る袋をもらう。そして金のために悪魔が出るという城に向かって、賭け事が大好きな小鬼たちとカードに興じる。負けて怒り狂い耳から湯気を出す真っ赤な小鬼たち。兵士の人生は波瀾万丈で、水を病人にひとしずくかければ、青白い死神がどこにいるのか見えるという不思議なグラスも手に入れる。病人の足下にいれば間もなく快方に向かうが、頭の上にいれば死が待っている。落語「死神」に似た展開はヨーロッパ民話にもあるんだ。

 別の話では〝おそれ知らず〟の少年が、恐怖を知るための冒険に出る。何も怖いものがないので、沼の妖女に誘われても得意のバイオリンを弾き続け、音に惹かれた異形の主が現れても動じないし、むしろバイオリンを教えてくれる国の場所を教えて(しかもめちゃくちゃアバウト)、結果的に沼の主がいなくなって平和になる。恐怖を知らない少年は無邪気な心のまま怪物をどうにかしてしまう。やがて猛烈に怖くて人がたくさん死んでると噂の城で化け物退治をすることになるが、やっぱり怖くない。胴体と両足が別々の男にボーリング対決を挑まれて、負けたらお前の胴体をちょん切ってやると言われても、へいちゃらなままだ。けれど物語の最後には、少年はついに恐怖で震える。こんな豪胆な少年をおそれで竦ませたのはいったい何だったのか、その答えも私にとっては真新しく、謎をすとんと快く解いてもらったようで、とても感動したのを覚えている。

 他にも、人を食うグリフィンが出てくる話とか(若かりしショーン・ビーンが主役をやってる!)、強欲で醜いトロールの話とか、助けてくれる白いライオンとか、魔女によって兄がみんなカラスに変えられてしまった姫の話とか、ヨーロッパの民話やおとぎ話を元にしたお話たちが続く。どこか抜けていて愛くるしくも、恐ろしく不気味なクリーチャーと、幻想的な視覚効果を交えて語られる。
 夢中にならないわけがない。子ども向けなはずなのに、怖い部分も汚い部分も美しい部分も、甘くしないで苦いまま出してくれるのに安心した。怖がりだったけれど、それ以上に子どもだましが嫌いだったのだ。私は小さな手で、教えてもらったばかりのビデオデッキを操作して、何度も何度も何度も繰り返し見た。幸い私の両親は、文化に関しては子どもが見たいものを見たいだけ見せてくれるタイプだったので、本当に助かった。

 なかでも、ストーリーテラーのお話がついに尽きた日の話が大好きだった。石のスープも食べてみたかった。美しくて残酷でハラハラドキドキして、最後には「あっ」と膝を打つ。王と女王と王子のために365日毎日違う話をしなければ処刑されてしまうのに、最後の一日になって何も思いつかなくなり、話の種を失ったストーリーテラーが、トラブルに満ちた不思議で長い長い一日を経たことを語り、頭を垂れながら「そんなわけで、陛下に語るお話がないのです」と結ぶ。とたん、冷血な王の目に涙が光り、「今聞いた話こそ、最高の話じゃよ」という言葉と共に、喝采が起きる。
 「そんなわけで、陛下に語るお話がないのです」――けれども、〝ない〟はずのお話に胸を打たれる。語る者に〝その力〟があれば、そう、それでさえ物語になる。

 物語の種はどこにでもあり、どこまでも育つ。隠された種はベールの向こうでいたずらっぽく笑いながら、見つけられるのを待っている。何より、語り部でさえ何がどんな物語になるのかはわからないのだという驚き。だからこそ誰も知らない物語が生まれ、面白くなるのだという興奮。
 〝物語の力〟などという表現は正直陳腐だと思うけれど、あの時、私は本物の魔法のしびれを感じた。人類が生まれてから存在する、気が遠くなるくらい太古の、けれど新しい魔法。当時は幼すぎて、まさか自分も同じ魔法の力を持っているとは想像もしなかったけれど。

 ジョン・ハート演じるストーリーテラーを吹き替えるのは大塚周夫で、ハート自身の声とよく似たその飄々とした雰囲気は本当に心地良く、わくわくさせてくれた。吹き替えの言い回しも好きだった。今のDVDには収録されていないので、当時の放送を録画したVHSを家宝のように大切にしている。また再放送してほしい。
 私の中にある物語の本質は間違いなく「ジム・ヘンソンのストーリーテラー」によって育まれ、別の土へも根を伸ばし、今の私を支えている。