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「コロナ in イタリア」本でひもとく 古典に響く、死を想い生きる力 ジャーナリスト・内田洋子 さん

人影がまばらなベネチア・サンマルコ広場=7月、ロイター

 新年の次はカーニバル。年中行事を楽しく過ごしていたイタリアを突然、新型コロナウイルスが襲った。北部から始まった感染は猛進し、三月中旬には全土封鎖が発令され家から一歩も出られない毎日が始まった。

 ヴェネツィアで下宿する大学生に連絡してみると、実家のあるミラノには帰らないという。「中世に、疫病の感染防御のため〈隔離〉を考え出して戦ったここヴェネツィアに残り、間近で一部始終を見たいのです」

疫病文学の原点

 彼女は外出禁止中に読もうと、ボッカッチョ著『デカメロン』を買った、と言った。一三四八年にペストがイタリア半島を猛襲した際に執筆された、名作である。感染を逃れるためにフィレンツェ郊外へ避難した男性三人と女性七人が、毎日ひとり一話ずつ十日にわたって話した百篇(ひゃっぺん)の物語、という構成になっている。ボッカッチョは〈第一日まえがき〉で、疫病の凄惨(せいさん)さと取り乱す人々の様子を描く。観察眼は醒(さ)めて、微細まで取り逃がさず、記録映画さながらの圧巻の描写だ。後世に続く、数々の疫病文学の原点とされる所以(ゆえん)だろう。ボッカッチョは、〈悩み苦しみの折、友人が楽しい話を聞かせてくれて、絶望に落ち込んでいた私を慰めてくれたのです。そのおかげで心身ともによみがえり、私はそれで救われたと確信しております〉と序で述べている。苦しむ人々を慰めるために、喜怒哀楽に満ちた物語を書いたのだろう。ペストで中世が終わり、人間らしく生きることを謳歌(おうか)しよう、という新時代が始まった。『デカメロン』は、次世代を照らす朝陽(あさひ)のような役割を果たしたのではないか。

喧噪をBGMに

 緊急事態のもとで大学生から『デカメロン』を読み返すと聞き、〈時事問題の騒音をBGMにしてしまうのが古典である。同時に、このBGMの喧噪(けんそう)はあくまでも必要なのだ〉という、イタリア現代文学作家イタロ・カルヴィーノの言葉を思い出した。彼には、『冬の夜ひとりの旅人が』という小説がある。〈物語はある駅で始まる、蒸気機関車が一台鼻を鳴らしている〉で始まるこの作品の主人公は、カルヴィーノ自身の新作を読もうとする〈ひとりの旅人〉である。ところがせっかく購入したのに、欠陥本のため読み進められない。〈旅人〉は正しい刷りを探すものの、次々と問題が生じて小説の筋は逸(そ)れていく。読んでいるこちらも、始まりも終わりも定まらない本をいっしょに探し続ける羽目となる。やがて、〈あらゆる物語が伝える究極的な意味には二つの面があるのです、生命の連続性と、死の不可避性です〉と、カルヴィーノは締めくくる。この一節を読んだとたん、イタリアの人々がバルコニーで互いを気遣い歌う光景と、感染による多数の犠牲者を火葬場へと伴う軍隊の装甲車の葬列が、目の前に現れた。

 一般にイタリアは、家族の繫(つな)がりが強い。日曜日ごとに三世代が集まり食卓を囲む家庭も多い。皮肉にも家族の強い絆が仇(あだ)となり、高齢者から感染は広がり多くの犠牲者を生む結果となった。遠かった死がすぐそこへと迫り、自分の今までとこれからに想(おも)いを巡らせた人は多い。

 モーム著『サミング・アップ』。著者は、自身の人生を振り返り、冷静に分析する。ヒントを探そうと、私は懸命に読んだ。ところが著者に、〈人生には理由などなく、人生には意味などない。これが答えである〉と、突き放されてしまう。そうではないと言うなら見せてごらん、と密(ひそ)かに読み替えてみる。終わって始まる、ということがきっとあるはず、と言い返してみる。=朝日新聞2020年8月8日掲載