料理を「哲学」する 創意工夫が自他を幸福にする 三浦哲哉

「料理とは何か」を考えるのは、簡単なようで案外難しい。なぜなら、料理は手と鼻と舌でなされるからだ。言葉にしがたい感覚に、繰り返される日々の習慣に、暮らしの広がりの中に、料理は溶け込んでいる。「とは何か」を問わずとも料理の何たるかは体得されるし、優れた料理書は具体的な記述のうちに、やわらかな感覚の描写のうちに、それを表現する。
あえて「料理とは何か」とひとが問うのは、それが切実に必要な時だ。たとえば「料理」を発見する時、失う時、維持しようとする時である。
坂口恭平『新装版 cook』(晶文社・2420円)は、ほかに類例をみない成り立ちの料理書だ。躁(そう)うつ病とつきあいながら生きる著者が、あるとき料理を開始する。料理を日課にしたとたん、みるみるうちに生きる喜びが湧いてくる。前半では料理写真とその記録が綴(つづ)られ、後半部分は「料理とは何か」と題した考察が記される。アンリ・ベルクソンの「生」の哲学を参照しながら、ばらばらだった心身の調和を回復させる料理の力について坂口はこう表現する。「喜びはどこか遠いところにあるのではなく、料理にある」。それは体と感覚を再起動し、自然の事物を巻き込みながら、ささやかであれ何か新しいものをもたらす。「創造」の証しが料理の「喜び」だ。
辰巳浜子『料理歳時記』(中公文庫・796円)は昭和48年初刊のロングセラーである。料理とは何か、著者がタイトルで示すように、それは「歳時記」である。「絵心も歌心もない」からその代わりに「花より団子」を実践するだけと謙遜しつつ、春夏秋冬の自然を味わう方法が綴られる。言葉遣いは生き生きとしてユーモラスで温かく、料理を介して人間が自然といかに親しく交流しうるかが示される。往時の「主婦の仕事」の集大成であり、その理想型の表現であろう。頁(ページ)をめくれば、自分の祖母の台所仕事の思い出がちらちらと蘇(よみがえ)る。
現在、家でここまでする者はほぼいなくなったにちがいない。新しい技術やサービスが生まれ、男女ともに家事の束縛からより自由になった。それは進歩である。だがやはり本書を読めば大きな何かが失われたことに気付かされずにいられない。喪失は、執筆当時すでに辰巳がひしひしと感じていたことだ。「口うるさい婆(ばあ)さん」になってでも「料理とは何か」を伝える義務があると考えた所以(ゆえん)だろう。私たちはこの本のどの部分を、嫌々する義務ではなく喜びとして、取り戻せるだろう。
稲田俊輔『料理人という仕事』(ちくまプリマー新書・946円)は、料理人・飲食店プロデューサーとしての実体験をもとに、プロにとって料理とは何かが示される。中に入ってみないかぎりわからない飲食業界の現実がある。たとえば「料理をつくる」ことは飲食店の全仕事――「人事、経理、総務、教育、受発注と在庫管理、広報、営業、情シス」に加えてさらに膨大にある「名も無き雑用」――の「四分の一」ぐらいである。だからこそ料理人は「手の早さ」を身につけ、「四分の一」を充実させるためにありとあらゆる創意工夫を凝らす。時間をかけていわば料理的知性を習得する。それが奥深い店の味になるだろう。
こんにち、労働環境の改善など好材料も多くあるが、じわじわと進む貧困化、画一化、効率化、過当競争などの逆風もそれなりにある。それでも料理人として幸福に生き続けることは十分に可能であると、著者は自分の経験に賭けて明言する。それがどのように可能かをきわめて明晰(めいせき)に綴る本書は、優れた実用書でありながら、第一級の教養小説を読む時と同じ感動をもたらす。料理とは何か。創意工夫をかたむけて維持しつづける価値のある仕事、うまくやれば自分も他者も幸福にする仕事だ。=朝日新聞2025年6月28日掲載