わたしは無類のフィギュアスケートファンである。その起源は2002年のソルトレイクシティオリンピックに遡る。
ショートプログラムで村主章枝選手が滑っていたアヴェ・マリアが私がこのスポーツに目覚めたきっかけである。演技のまえに表情が柔らかくなり、微笑むように滑りはじめる村主選手の姿は当時十九歳の私には衝撃的であった。
なにが衝撃であったか。当時のフィギュアスケートは技術と表現を6.0満点で採点しており、ショートプログラム、フリープログラムの順位によってポイントが加算されるシステムで、ようするに今より大逆転が起きづらく一つのミスに対する比重が大きかった。重圧ののしかかるそうした状況で微笑みながら演技をはじめる、その不思議さに魅了された。表現と競技性が分かちがたいフィギュアスケートならではの面白さを村主選手が体現してくれたのだと、今では思っている。競技全体がジワジワ人気になっていくなかでも私はたびたび会場にまで足を運び、村主選手を応援しつづけて、いつしかフィギュアスケートそのものを好きになっていた。
同時期にイリナ・スルツカヤの滑っていたトスカも忘れがたい。演技の最終盤にみせるドラマティックな振りが大好きで、会社員時代にはよく辛い会議の最中に現実逃避の術として脳内でスルツカヤの演技を再現し味わいつくしていた。フィギュアスケートの世界は技術の進みがはやく、先人たちの影響も一世代ですぐに伝わっていく。世界選手権を二度制したエフゲニア・メドベデワ選手がその後に滑ったトスカにスルツカヤへの敬愛を勝手に感じ取り、じいんとしたりしたものである。
時代をつくった大スターにはもちろん、たくさんの輝きを受け取ってきたし、そのスターたちの横で地道に技を磨いた選手たちの技術の向上も眩しく見てきた。新採点方式が洗練されていくにつれ、だんだん競技としての受け取りかたが薄れていき、スポーツとしてより踊りとして楽しむような部分が増えてきている。つまり選手の順位に一喜一憂するようではなく、何度も繰り返して気に入った演技を見たいような。ひとつひとつの技やその工夫に細かなポイントがつく新採点方式は、結果的にはフィギュアスケートという競技技術の向上に大きく寄与しているように思っている。
ジャンプ技術の向上は勿論のこと、スケーティングそのものの洗練もめざましいものだ。ひと蹴りでぐっとトップスピードに乗れる体重移動や深いエッジで氷を掴むダイナミックな滑りは見ているだけでとても心地いい。そうしたタイプのスケーターとしてずっとキム・ヨナの滑りに魅せられ、ミハイル・コリヤダ選手、宮原知子選手なども「推し」である。2018年に亡くなったデニス・テン選手もノーブルで素晴らしく、いまだによく演技を見ている。
小説とスケートも似ているところがあり、両方とも好きなものであるがゆえに親近感をおぼえてよく引き寄せて考える。実際に、近年小説の出来をフィギュアスケートの新採点方式にたとえる感想に出会うことがあるのだが、よく言われるように技術面/表現面と二分できるほど両者とも単純ではない。一例を上げると、フィギュアスケートでは四回転やトリプルアクセルなど得点配分の大きいジャンプに注目が集まりがちだが、よいジャンプはよいスケーティングから成るものだ。よいスケーティングなしによいジャンプは生まれず、ジャンプとスケーティングは分かちがたくフィギュアスケートという競技全体に組み込まれている。
このことを小説におきかえるなら、フィギュアスケートにおけるスケーティング技術は、小説における地の文を書く力に似ている部分があると思っている。ジャンプは魅力的な登場人物のようなもので、それは文章の冴えがあってこそ本来の魅力が際だつもの。地の文あってこその登場人物なのだが、しかし両者は分かちがたく峻別しがたい。そうしたことを二十年弱ほどもフィギュアスケートを見続けてくると、つい夢想してしまう私である。