古典は難しい、役に立たない。学校の授業でそんな印象を抱いた人は少なくないだろう。授業で古典に触れる意義は何だろう。平安の古典に魅せられ、来日して翻訳の仕事に携わるイザベラ・ディオニシオさんに尋ねた。
《世の人の言へばにやあらむ、なべての御さまにはあらず、なまめかし。》
「和泉式部日記」にある恋の一節は、こうなる。
《前から聞いていたからなのか、めっちゃハンサム!》
6月、淡交社が『平安女子は、みんな必死で恋してた』を刊行した。平安時代の女性たちにまつわる文学作品の内容や、その背景を説明する一冊だが、見どころはなんと言っても、イタリア出身の著者であるディオニシオさんが原文の横に付けた「超訳」だ。
《よそのオンナにちょっかいを出しているということは、もうあたしのところへ来ないつもりってことね?(チッ)》(「蜻蛉日記」の一部訳)
今の言葉遣いを融通無碍(むげ)に用い、登場人物の表情やしぐさが想像できるように工夫がこらされている。
ディオニシオさんが日本の古典文学に触れたのは、文学を勉強していた大学生の頃。文法にこだわらず、物語として「源氏物語」を通読した。「千年前の、しかも日本というとても遠い場所なのに『あ、この気持ち分かる!』というところがあり、感動した」。2005年、来日した。『平安女子』は、15年から「東洋経済オンライン」に連載するコラムの一部を加筆修正し、まとめたものだ。
日本の友人でも、自国の古典作品を読んでいる人は少なかった。けれど、あらすじや作者のキャラクターを話すと、興味を持たれた。「アカデミックな正しい読み方はあるけれど、その縛りから離れ、自分の中で自由に解釈する道があっても良いと思う。その楽しみを伝えたかった」
週1度3年間、ダンテの授業
自身が通ったイタリアの高校では、週に1度「ダンテ」という授業があり、彼の傑作「神曲」を3年かけて読んだという。それは、自分たちのルーツや文化を知り、現代に通じる、過去の人々の息づかいを感じる時間でもあった。「古典で何か確固たるスキルが得られるわけではないでしょう。しかし、実益のあることしか学ばない姿勢では、教養を積んだ先にある豊かな人生を知ることはできません」
古典の文法などを学ぶのは、労力がいる。だからこそ、授業という形で、学生時代に古典の文法や語彙(ごい)に触れる機会を与えられるのも重要だ、と語る。
「暗記が入り口になる古典はどうしても難解だけれど、若い時には苦しめるパワーがある。その経験さえあれば、大人になってからぜいたくな趣味として文学を味わうことができるのだと思います」(山本悠理)=朝日新聞2020年9月30日掲載