三冊の詩集について書く。いずれも今年実った詩の果実だ。
今年の十二月に八九歳となる谷川俊太郎がこの夏に刊行した詩集は、『ベージュ』だ。すなわち米寿。軽やかで、お洒落(しゃれ)なタイトルの付け方だ。
「にわに木が」は、書き下ろしの作品。本書の「あとがき」は「詩を書いていると、私の中に時々ひらがな回帰という現象が起こる」という一文で始まるが、それは、この一編とも響き合う。にわ、そら、ほん、わたし、かわ、やま。ひらがなで表される言葉の数々が、まるで初めて触るもののような感触を帯びて、詩の中にある。それはきっと、この詩を綴(つづ)ったとき、作者が初めてひらがなを扱うような感触でこれらの言葉を書いたからだろう。作者の側のそうした感覚は、意外なほど詩の中に残るものだ。
「川の音楽」は、とくに素晴らしく、大好きになった。何度でも読みたい。第三連は、次の三行から成る。「川が秘めている聞こえない音楽を聞いていると/生まれる前から死んだ後までの私が/自分を忘れながら今の私を見つめていると思う」。『方丈記』を書いた鴨長明がこれを読んだら、いったい何というだろう。この詩を、鴨長明に教えてあげたい。
十三歳の視点で
三角みづ紀の『どこにでもあるケーキ』は、これまでの著者の詩集とはかなり趣向が異なるという点に驚いた。十三歳の少女を主人公とする連作的な作品。著者は二十代のとき、詩集『オウバアキル』『カナシヤル』で、自らの病と向き合いながら生の苦悩を烈(はげ)しく表した。その後も地道に執筆を続け、活躍してきた著者が、三十代の終盤に出した本書は、意外にも、人物を立てる方法で書かれた。
一人の少女を仮構し、創作的な視点を強く導入している。学校、制服、音楽室、理科室、図書室。「膨らんでいく身体は/焼き上がるのを待つ、/どこにでもあるケーキ。」という、詩集のタイトルと結びつく詩行を含む作品は、本書の冒頭に置かれた「森の生活」だ。
授業中の教室を描いた「孵化(ふか)する日まで」は、「わたしは皆とはちがう/全員がささやかにあらがう/でも完全にちがうのはこわい」と、十三歳の気分と主張を切り取る。本書を彩る塩川いづみの装画も、詩と響き合って印象的だ。瀟洒(しょうしゃ)な作りのこの詩集は、手の上に載せると小鳥のようだ。子どものころ飼っていた文鳥を思い出した。
マーサ・ナカムラの『雨をよぶ灯台』は力作詩集。今秋、萩原朔太郎賞を受賞した。二〇一七年に第一詩集『狸(たぬき)の匣(はこ)』を刊行して、新人賞である中原中也賞を受けた著者の第二詩集だ。
怖さと好奇心と
著者の詩は、深い想像力を感じさせる。たとえば、暗がりで子どもが一人、膝(ひざ)を抱えてじっと座っているとき、怖さと好奇心で、いくらでも想像が湧き上がる、といった感じの感触がみなぎっている。散文的な書き方の中にも、常に言葉に対する観察とわずかなためらいがある。それが作者の作品を詩に留まらせているのではないか。
「新世界」に次の言葉がある。「幼い頃、全ての色を混ぜれば透明になると父から習った/自分で絵の具を混ぜたら黒くなった」。この黒さは、闇に通じる黒さだ。怖さや不安もあるが、心惹(ひ)かれるものも、闇の奥に宿るのだ。見つめていると、ぽつりと灯(あか)りがともる。きっとそこから、マーサ・ナカムラの詩は生まれてくるのだろう。遠い昔を思い描くときに浮かぶ哀感や諦念(ていねん)の向こうに、忘れたころに、希望の光が瞬く。この詩集には、そんな世界が広がる。外間隆史の装画も心に残る。
詩集という詩の果実を三つ、並べた。それぞれ、おいしい。どうぞ食べてみてください。=朝日新聞2020年10月24日掲載