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宇佐見りんさん「推し、燃ゆ」インタビュー アイドル推しのリアル、文学で伝えたかった

文:篠原諄也 写真:斉藤順子

推しへの愛情、「一方通行」だからいい

――推しについて世の中で理解されていないと感じたのが、執筆の原動力のひとつだったそうですね。

 まず、「推す」というのは、芸能的な活動をする人をファンが応援すること。そして「推し」は、ファンが応援している人を指し示すときによく使う言葉です。ジャニーズ、宝塚、地下アイドルに地上アイドル、今で言えばYouTuberもそうですね。「推し」という言葉も、その感覚も、私と同じ年代の子たちには通用することが多いのですが、世間的にはまだその実態が理解されていないように感じたのが、書いたきっかけのひとつです。たとえば、「推しを推すこと」が恋愛の下位互換や趣味の一環として捉えられている。「恋愛的に好きなんでしょ」「一方通行で見返りが返ってこないのになんで追っかけてるの」と言われたりする。でも「推す」ことが趣味の範疇を超え、生きがいのようになっている人もいるんですね。生活の一部に深く食い込んでいる人が多いのに、あまり注目されていないと感じました。

――推し方は人によってかなり多様だそうですね。本作ではたとえば「推しのすべての行動を信奉する人」「善し悪しがわからないとファンとは言えないと批評する人」「恋愛的に好きで作品には興味がない人」などがいるとされていました。宇佐見さんご自身もある俳優の推しがいるそうですが、どういうタイプの推し方でしょう? あかりと似ていますか?

 私は大量のグッズを集めたりするタイプじゃなくて、どちらかというとそのお金があったら、足を運んで目に焼き付けておきたいタイプなんですよね。舞台上の推しと、舞台を降りたその人とは別物だと捉えていて。あかりのように舞台上以外の情報を集めることもありますが、基本は舞台上の推しを応援している感じです。特に私が推しているのは俳優なので、彼が一番見せたいものはすべて舞台に乗っているんじゃないかなと思っています。推しのすべての行動を信奉したり、批評したり、ということは避けていて、これはあかりと通じるかもしれません。

――推しへの愛情は「一方通行」であるからいいと考えている点も同じだそうですね。どういうことでしょう?

 一般的な人間関係、たとえば友達、恋人、家族は、自分が言った言葉や相手への愛情によって、関係性が変わりますよね。だから向こうからどう思われているかを気にしつつ進んでいく関係性だと思います。でも推しは遠い存在なので、こちらは見られていません。推しへの愛情は、その活躍で返してくれるものなので、ファン個人に対する愛情として返ってくることはありません。でも返ってこないからこそ、自分にとても自信がない時に救われるということがある。

 たとえば、あかりはいろんなことがうまくいきません。部屋が汚いしバイトはクビになってしまう。そういう自分が誰かに丸ごと受け入れられることを、あかりは望みません。自分を認めてほしい、見てほしいという思いすら起こらないほど、自分で自分のことが許せないからです。推しは自分を愛してくれる存在にはなり得ないですが、否定はされないんですよね。「あなたはダメだ」とは言ってこない。見限られて、離れていくこともない。ある程度の距離がありつつ、その関係性は消滅しないまま、どこかに存在してくれる。その存在に勇気づけられるという意味で、愛情が返ってこない距離が救いになるんです。

――本作では「全身全霊で打ち込めることが、あたしにもあるという事実を推しが教えてくれた」とも書かれていました。

 あかりは何をやってもうまくいかないし、自分の生活や勉強に向かう気力もない。でも推しに対しては100%の熱量で躊躇なく注ぎ込めるんですね。ただただ応援したいという気持ちでいられる。たとえば、私にとってはそれが小説だったりします。100パーセントの自分で打ち込めることがある。それはやっぱり幸せなことだと思います。自分を受け入れることに繋がっていくと思います。

生活の中でままならない「重さ」を描く

――本作ではあかりが更新するブログ内容が書かれていました。推しの音声付き目覚まし時計を使ってみた感想、出演したラジオ番組の文字起こしなどの内容でした。執筆のために、ファンのSNSやブログを見ましたか?

 小説を書こうと思って見る以前に、もともとそういうものを読んで共感したりしていました。それこそ推しの出ている舞台のレポを読んで、反芻して浸ったり、行けなかった回のアクシデントやアドリブを調べてみたり。自分にはあまり馴染みがない、推しの缶バッジやアクリルスタンドなどを並べて作る「祭壇」や、地下アイドルの「物販」「出待ち」などについて検索するのも好きです。その世界にしか通じない用語や独特の文化に驚かされることもありました。

 はてなブログで面識がない匿名の方のブログを読んでみたりもしましたね。たとえば、「有名でない頃から追いかけていた推しが人気になっていくのが辛い」ということが書かれた記事や「推しに顔を覚えられたけれど、応援し続けなければと責任を感じてしまう」「ファンコミュニティから離れて推し始めたら楽になった」という記事など。そこで語られていたことは全体に敷衍できる話ではないかもしれないですけど、こんなに複雑な思いを抱えながら推している人がいるんだと思います。本当に色々な推し方があり、『推し、燃ゆ』でのあかりの推し方はほんの一例ではありますが、その熱量は現実に存在し得るものだと思います。

――前作『かか』でも、推しが描かれていました。語り手・うーちゃんの推しの相手役をよく務める俳優が、ファンと結婚するため引退します。二作に共通するのは、推しの終わりを描いていることでした。なぜ、終わりに着目するのでしょう?

 推しを推している人にとって、一番の事件じゃないかと思うんですよね。たとえば、ツイッターやブログで「ご報告」と書かれていると凄くドキッとする。嬉しい報告だったらいいですけど、「解散します」「結婚します」という内容であることがある。私は結婚は「おめでとう」と思うタイプなんですけど、一部のファンの方にとっては、大きなショックだと思います。

 でもいつか絶対に自分が飽きるか、相手が活動を停止するかの未来が待っている。そこは当然描かれるものとして、あかりが対峙するものとして書きました。終わりを描くことによって、推しを推すとは本質的にどういうことかが見えてくると思います。

 それはあかりにとっては、かなり乗り越えがたいことである。自分の「背骨」である存在が遠くなってしまう、いなくなってしまうのは、本当に辛いことです。私にとって、小説を奪われるようなものなんですよね。小説を絶対に書けないような世界は本当に信じられません。

 でもいつか推すことに終わりがきたとしても、そこで推していた期間というのは、やっぱり消えないはずだと思います。

――本作には何度も「重さ」という言葉が出てきます。それに対して、推しは「軽い」自由な存在として描かれているように感じました。「重さ」とはどういうことでしょう?

 生活の困難さ、ままならなさの象徴のようなものです。生きていくだけで大変である。たとえば、朝起き上がるのが大変である。満員電車が辛い。それぞれ違うことだけれど、全部に響いてくる「重さ」があると思います。

――印象的だったのは、推しが12歳の頃に演じたピーターパンの舞台のシーンでした。「大人になんかなりたくない」と劇中に何度も言います。それを観たあかりは「重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする」と受け取ります。

 ピーターパンは私自身、幼少期に観たことがありました。凄く心を奪われたというわけではないんですけど(笑)。作中でピーターパンは舞台上であかりにはできない自由さで飛んでいく。そこで「大人になりたくない」という台詞がストンと入ってきたんだと思います。

――宇佐見さんは大人になることに対する葛藤を描きたいという思いがあるのでしょうか?

 大人になることそのものよりも、大人になった時にやらなければいけないこと、「これができて一人前だ」という考え方に対する...でも、抵抗じゃないんですよね。『かか』のうーちゃんの場合はかなり抵抗するけれど、あかりの場合はやりたくてもできない。「重い」からできないんです。

 保健の授業であかりは「勝手に与えられた動物としての役割みたいなものが重くのし掛かった」と感じます。『かか』のうーちゃんは、そこに強く抵抗を抱き、跳ね除けている。女性としての役割、女性としての苦しみや悲しみは、弟のお前には分からん、と言っています。でもあかりは跳ね除ける気力もない。すべてが嫌じゃないけど、だるくて重い。迫ってくるものを、ひたすらヨイショヨイショとやろうとするんだけど、うまくいかないんです。

中上健次作品の描写の凄まじさ

――宇佐見さんご自身、生きづらさを抱えていて、文学に救われたという思いがあるのでしょうか?

 そうですね。色々と難しかった時期は、中上健次さんと村上龍さんの小説を読んでいました。本を読んだところで現実は変わりませんが、文学のなかに現実の手触りがあり、安心することがあります。

――二人の作品の魅力とは?

 村上龍さんの小説は現状を打破するエネルギーを読んでて凄く感じました。本当に没頭することができました。読み物として面白くて、ガツンガツンと入ってくる。自分の世界をまったく忘れさせてくれるような、全部を奪われる時間をくれる感じでした。

 村上龍さん経由で中上健次さんを知ってからは、どっぷり中上さんを読み耽りました。共感で読まれる作家ではないかもしれないですけど、私はかなり感情移入して読みましたね。彼は家族構成が似ている登場人物を繰り返し書いているんですけど、特に『岬』の主人公・秋幸のお姉ちゃんの美恵のことが分かる気がします。彼女はある事件をきっかけに辛い状況に陥ってしまって、最後は「気がふれた」とまで言われてしまう。私自身、周りに分かってもらえないだろうと思っていたのと同じようなことを、彼女も切実に感じているんだろうと思い、彼女が存在してくれることに救われました。中上さんの、「人」や、その関わりによって現れる八方ふさがりな「場」の描写がひどく正確で現実的だからこそ、そう感じられるんだと思います。

――中上健次は一番好きな作家だそうで、宇佐見さんは高校卒業のタイミングで中上の故郷の熊野までひとりで旅したそうですね。『かか』の作中でも、うーちゃんの熊野への旅が描かれています。特に好きな作品はありますか?

 たくさんあって、時期によっても変わるのですが、決定的に好きなのは『岬』と『十九歳の地図』です。『十九歳の地図』は生きる歯痒さみたいなものが凄く出ている。主人公のかび臭い部屋の匂い、サルビアを踏む感覚、家に「×印」をつける質感など、描写が逐一素晴らしく主人公のやりきれなさが切々と伝わってきます。最後に主人公が泣いている場面では、電話ボックスの側で「氷のつぶのような涙がころがるように」出てきたと書かれ、その場面は本当に息が楽になるような感じがしました。『岬』は、中盤の描写が完璧です。以前は感情移入して読むことが多かったので序盤とラストの疾走感が好きでしたが、最近は、描写の正確さと熱が両立した中盤を何度も読んではその凄まじさに打ちのめされています。

――昨年、第56回文藝賞を受賞した『かか』ですが、今年の9月には第33回三島由紀夫賞を受賞されました。文学賞を次々と受賞されていかがでしょう?

 月並みですが、本当に驚いていますし、うれしいです。自分の書くものに満足はしていないのですが、ふたつの賞をいただき、読んでいただけているとわかったことで、書くときに悪い意味で不安に取りつかれることが少なくなったかもしれません。一番うれしかったのは、文藝賞の最終選考に残ったときでしょうか。読んでくれる方がいるというのは本当に大きいです。この1年で精神的にも安定した感じがします。今は3作目を書いている途中です。いくつも書きたいテーマがあるので、それぞれタイミングを見計らいながら、書いていこうと思っています。

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