漫画と文章に焦点を当てた傑作集
――もともとフジモトさんとはどういうご関係だったんですか。
フジモトさんとは仕事の出会いではなくて、もともと小説家仲間で友達の長嶋有さんと、ブックデザイナーの名久井直子さんの紹介で知り合いました。フジモトさんは長嶋さんや名久井さんの親友で、長嶋さんのおうちに遊びにいったときにフジモトさんもいらっしゃって、紹介してもらったんです。
――今回福永さんはどのような経緯でフジモトさんの本を企画することになったんですか。
直接僕が生前のフジモトさんと仕事することはなかったのですが、読者としてはずっと作品を読んでいました。ところが、没後5年経ってフジモトさんの本の多くが品切れ重版未定(出版社に在庫がなく、増刷の予定もない状態)で、書店でフジモトさんの本を見かけることが少ない状態になっていることに気づきました。もちろんフジモトさんの作品を好きな本屋さんには在庫があるし、古書では流通しているのですが、新しい読者にとっては手に入りにくい状態になっていました。そこで新たに本を作って新刊として本を出すことで、品切れによって読者の視界から遠のいていた状態のフジモトさんの作品を、再び新しい読者の視界の中に出現させたかったんです。
――傑作集として出されたのはどうしてですか。
絶版の本を出すのに新装版(カバーやデザインを変える)や復刊(絶版になっていた本を再び刊行する)といった手段がありますが、フジモトさんには未収録作品がたくさんあるので、それを集めて傑作集という形にして出したいなと思いました。というのも、今までにない全く新しい本として出さないと新しい読者が生まれないんじゃないかと思ったんです。フジモトさんの本を読みたかった人には「待たせたね」、フジモトさんのことを全然知らなかった人にとっては、「こんなのもあるんだよ」という思いで、読者がフジモトさんの世界に出会えるようにしようと思いました。
――福永さんは選と構成を担当していますが、作品を選んだり、並べる際に気をつけたことはありますか。
フジモトさんは世間ではイラストレーターとして認知されていると思うのですが、この本ではオリジナル作品である漫画と文章に焦点を当てようと思っていました。一点、藤野可織さんの「スパゲティ禍」という作品が入っていますが、これは「美術手帖」という雑誌で、僕が企画に入っていろんな作家による短編小説とビジュアル表現のコラボレーションしたものです。これを依頼した当時はフジモトさんの病気もしんどいときで大変だったんですが、「藤野さんの作品は大好きで全部読んでいます、やります」と快諾してくださって、出来上がった作品はページを繰るごとに活字を追っていくことの面白さと絵が出てくることの面白さが合致していて、見事に企画意図に答えてくださったものでした。いつか絵と文章をそのまま載せたいと思っていたので、今回この本で初出の状態で収録できてよかったです。
フジモト作品は孤独を癒してくれる
――フジモトさんはずいぶん広い範囲でお仕事されていたようですが、こんなに作品がたくさんあると集めるのが大変じゃなかったですか。
今回は漫画やエッセイなどに限りましたが、その中で手に入るものはほとんどすべて目を通しました。監修の名久井直子さんからは、ほかの作品やどの出版社の誰がデータを管理しているかを教えてもらったり、青幻舎の編集者には他社の編集者にほかの作品の存在を聞いてもらったりもしました。僕一人の力だけじゃなくて、青幻舎の編集者と、ずっとフジモトさんとタッグを組んで仕事をされていた名久井さんの力のおかげもあって、これだけの作品が集まりました。
――選ぶにあたっての基準というか、福永さんなりの方針はありましたか。
僕の一番の目的は「こぐまのガドガド」にスポットをあてることでした。名久井さんからは「『スコットくん』じゃないの?」と言われてしまいましたが。でも僕は「こぐまのガドガド」にはフジモトさんの漫画家としての可能性が、全部入っていると思うんです。とりわけ僕が選んだ4、5編には、フジモトさんの漫画家としての技量が全部入っている。漫画は、描きすぎると読者の視線の足をひっぱるし、読者の視線の自然な転がり方を邪魔してしまうけど、フジモトさんは情報の処理の仕方が的確でした。それは優れた児童漫画家がみんな持っている技術なんですけど、フジモトさんもそれを持っていて、今ですらもっと描いてほしいって思います。
福永さんの読みどころは、動きがコマにこめられているところ。「例えば、この新聞をめくっているシーンに新聞をめくる動きはないけど、その動きが表現されている」。微妙な表情の変化や背景の色や省略によって一コマごとに変化をもたせ、読者の視線を自然に転がすことで躍動感を生んでいるそうだ。
――そういった技術面以外で、フジモトさんの作品の魅力はどんなところにあると思いますか。
本は一人で読むもので、本の前では誰もが一人で一度孤独になります。そういう読者にフジモトさんは「おれも一人だよ」「お前さんと同じだよ」と寄り添うことで、言葉が軽いかもしれないけど、すごく孤独を癒してくれるところがある。フジモトさんの作品が読んでて楽しいのは、そういう同じ一人同士で話が弾むようなよさがある。
文章においてフジモトさんは「私は」というある意味人工的な一人称を使いますが、それは本を読む限りにおいて一律に「読者」である人と対峙するための方法だったのではないでしょうか。フジモトさんは、書き手という立場になって読者に対して腹を割って話すような平等な感じがするんです。そういうふうに誰にとっても水平な視線を保っているから、読んでいる側が孤独にならない。
――そうですね。何かの強い主張がされているわけじゃないからすっと入ってきました。
世界観も、狭い世界を描いているようでありながら、その狭い世界の広さを感じさせてくれるようなものが多いです。それはどこでもない場所を描いているということなんです。例えば不安という感情について描くとしたら、悲劇的な世界の終末であろうが、お父さんがうちに帰ってこないさびしさであろうが、同じようなスケールで描く。
それから、一つ一つの作品が短いのもいい。そのコンパクトさが狭い世界の広さを描く彼の呼吸にぴったりで、長いものを読むのが苦手な人でも読める。そういうふうに誰にでも読める大きさで世界の深さ、見たことがない世界の面白さを提示してくれる。それは、作品に普遍性があるということだと思います。フジモトさんが描く世界はどこにもなくて、いつもどの時代に読んでもありそうな普遍性をもっているので、今読んでもあまりギャップを感じないし、これからもないでしょう。細かいところは変わるかもしれませんが、これから何十年も読み継がれたとしても、作品の世界観が昔すぎて読めないようなことはない。それはフジモトさんの作る世界の幅の広さに、時代を超越したものがあるからではないでしょうか。
不在によってわかる作品のすごさ
――たしかに、2000年代初頭の作品でも全く古さを感じさせませんでした。
この本を作る過程でフジモトさんのすごさを改めて認識しました。作家というのは、いなくなってから生き始める部分が大きいんだと思いましたね。作家の不在によって作品のすごさがわかる。亡くなってから作品に埋め込まれていた部分がこんなにも大きかったということが見えてくる。名作というものはそういうものなんでしょうね。
――もう亡くなられた方の新しい本を作るのはすごく難しかったと思うんですが、気をつけた点などはありましたか。
監修に名久井さんが入り、僕が企画と選と構成をしたのですが、そのときに気をつけたのがやりすぎないことでした。本になっているのは彼の作品であり、彼の言葉なので、デザイナー、編集者も含めて3人でそれを作るお手伝いをした。ほんとにそれだけです。作者がいないということがタイトルと奥付に象徴されているんです。フジモトさんはいつも本のタイトルと奥付とノンブル(ページ数)を手書きで書いていました。だけど今回は彼がいないからタイトルも奥付も活字で、彼の不在がそこに象徴されている。ノンブルは、彼の書いたノンブルを組み合わせて、名久井さんが今回も付けてくれましたが。彼の本の中では、もっともページ数のある本になっています。
また、最初は生前親しかった人に解説を書いてもらって巻末に入れるつもりでしたが、ある段階で全部外しました。それはフジモトさんがこの本で生きていて欲しかったからだと思うんです。解説を入れるとどうしてもフジモトさんが亡くなっているいることを知っている人が書くので、この本の中でフジモトさんが生きているというのが成立しなくなるような気がして。もちろん書店や宣伝では「没後5年」と書いてあったりするから、そういう状況を知らないで読むことは難しいかもしれないけど。作者が「生きている」「生きてない」関係なく、本の中では生きている。だから、解説は生きている作者にとっては不要なものだと思い直しました。そして、それで結果的に正しかったと思いました。
発行日も最初は命日にしようと思ったんですが、それは違うなと思って。たまたまフジモトさんは誕生日と命日が3日違いだったので、11月25日になりました。フジモトさんのさんの新刊を作りたいという気持ちだったから、じゃあ誕生日がぴったりじゃないか、と。
――本になって残るということがどういうことかよくわかりますね。
本は書店に並ばなくなるとどんどんその存在を忘れられてしまいます。だから品切れになったら常に印刷して新しくする必要がある。2015年にすべての原稿が書き終わった作者ですら、新しい本は印刷できるし、新しい読者を獲得できるんです。だからこれは、新しい読者と出会うための傑作集ですね。
紙の本というのは、こうやって誰かが人間を育てるように寄り添って、新刊という状態で出し続けていかないと、生命が途絶えてしまうんだろうなと思います。これまでは生前の彼を知っている人たちが彼の本を作ってきたけど、今後はフジモトさんのことを全く知らない世代が彼の本を作っていく、そういうふうにして本が生きていく。この本でフジモトさんの本が生き返ったように、リレーのように次々バトンタッチしながら、フジモトさんの本が読み継がれていくといいなと思います。