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締切メシ 浅田次郎

 このご時世でも、いつに変わらず締切(しめきり)はやってくる。

 ありがたい話ではあるが、小説家とはよほど浮世ばなれした仕事なのだと、しみじみ思い知った。おそらく先人たちは、戦時下にも戒厳令下にも締切に悩まされていたのであろう。

 締切が迫れば面会謝絶はむろんのこと、電話もメールも受け付けぬ。書斎で事切れていてもわからぬ。

 それでも腹はへるので、ときどきどこからともなく握り飯が運ばれてくる。いわば野戦食である。具は梅干しと決まっている。食事のために書斎を出れば思考が途切れてしまう。いや、飯を食うために戦線を離脱する兵士はおるまい。

 握り飯でなければならぬ理由は、左手だけで食えるからである。ならば寿司(すし)でもサンドイッチでもよさそうなものだが、なぜか握り飯でなければならぬ。腹に収めたとたんメラメラと燃えて、活力に変わるからである。

 糖質の多くは大脳で消費されるらしい。なるほど、いかに倦(う)んじ果てていようと握り飯の効果は覿面(てきめん)、たちまち膝(ひざ)がシャンと立つ感じで筆が進む。さらには小腹がへったときのために、机上にはチョコレートが山と積まれている。締切に糖質は不可欠なのである。

 そんな苦労をするくらいなら、日ごろからコツコツと書きためていればいいではないか。しかし、なかなかそうはいかない。考える時間をできるかぎり長くとって、一気呵成(かせい)に書き上げるという呼吸が必要だからである。すなわち締切は、思考と表現の正確なゴールでなければならない。

 ところで、海外の作家たちは私のこうした仕事を理解しない。ほとんどの作品が出版社との契約に基づく書き下ろしなので、そもそも締切がないのである。一方の私たちは、原稿をまず新聞や雑誌に発表するなり連載するなりしたのち単行本化する。ここに外国の作家の理解を超えた、「締切」という「納期」が生ずる。明治以来、近代文学と近代ジャーナリズムが、軌を一にして歩んできた結果である。

 「締切」は英語で「デッドライン」。なかばジョークであろう。日常的に使うはずはない。ちなみに私たちが言う「デッドライン」は、「編集者が鯖(さば)を読んでいない本物の締切」をさす。つまりこれを過ぎると、「作者急病のため休載」となる。

 中国語では「截稿(ジエガオ)」。さすがである。稿を截(き)る。この用語の的確さ優雅さに比べれば、「締切」はまこと不用意な言葉に思える。たとえば、締切明けに訪れたシアターのドアに同じ「締切」と記されていれば、思わず体当たりをくわしたくなる。

 おや、ふと気付けばこの原稿、本年最初の締切ではないか。=朝日新聞2021年1月16日掲載