海水魚の撮影を手掛けている関係から、海釣りによく出かける。海釣りといっても本格的なものではなく、漁港の堤防で椅子に腰かけ安い道具で日がな一日ビール片手にのんびり過ごす釣りだ。ハリはかえしをペンチで潰したバーブレスフックを使っている。魚を海に戻すことが前提の釣りなのでハリ傷は最小限にとどめたい。なにより撮影するときに口元に傷があっては台無しだ。釣れた魚は生かしたまま持ち帰って撮影し、次の釣りのときに海に帰している。
とは言え運よく美味(おい)しい魚が釣れたときはありがたくいただくことにしている。堤防でよく釣れる魚にキュウセンベラがいる。冬にカワハギなどを狙っていると外道で釣れてくるので、釣り人にはあまり歓迎されない魚である。魚体にタテ線が数本(九線)あることが名前の由来だという。オスは黄緑色で顔の部分には歌舞伎のクマドリのような赤い線があり、派手な熱帯魚の趣がありお世辞にもうまそうには見えない。キュウセンベラは生まれたときはほとんどがメスで、成長すると一部がオスに変身する。また生まれつき外見はメスだが中身はオスという個体もいてペアに近づいて放精する。オスとの交戦を避けるために生まれてからずーっと女装をして生きているのだ。生きものが自然界で生き抜くには擬態や争う気配を見せないなどの“だまし”のテクニックは重要な生存戦略なのだ。
意外にもこのキュウセンベラが刺し身で最高においしい。カワハギ、キス、カサゴ、キュウセンベラの4種を刺し身にして味比べをしたことがある。キュウセンベラ以外は刺し身ではうまい高級魚ばかりだ。ところが、予想に反して舌ざわりの良さと上品な甘みがあって一番美味しかったのはキュウセンベラだった。以来、キュウセンベラは外道から、狙って釣る魚に昇格した。キュウセンベラの食欲をそそらないボディーカラーも、捕食魚や人間に食べられないための戦略だったのかもしれない。
沼津近郊の静浦堤防で釣りをしたときのことである。この堤防では釣り人と釣り人の間で翼を休めるアオサギの姿をよく見かける。人も鳥も海の恵みを享受し、お互い干渉せずに共存しているという素敵な風景だ。キュウセンベラが4尾釣れ、海水を入れたバケツに泳がせていた。釣り座を離れ友人と話をして戻ってみると、バケツのキュウセンベラたちは跡形もなく消えていた。まんまとアオサギのだましのテクニックにはまってしまったのだった。=朝日新聞2021年2月6日掲載