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宮城谷昌光さん「孔丘」インタビュー 孔子の思想と生涯、「論語」をひもときながら

<文芸春秋提供>

 宮城谷昌光さんが新刊『孔丘』(文芸春秋)で描いたのは、今から2500年以上前の春秋時代、魯(ろ)の国に生まれた孔子の生涯だ。短気だが、学ぶこと、弟子を教えることを愛してやまなかった。

 「論語は編集がいい加減」と宮城谷さんは話す。孔子の言葉が年代順になっておらず、どういう場面で誰に語ったかもほとんどわからない。今に伝わる論語が編纂(へんさん)されたのは、孔子の死後、かなりの時間が経ってから。「不可思議なところがある論語の文句を一語一語、なぜかと考えていく。その作業に時間がかかった。弟子たちが伝言ゲームのように伝えてきたと考えると、孔子の言葉そのままとは考えない方がいい」

 小説の構想は20年以上に及んだ。50代のころ、史料を読み込み、孔子の年表まで作ったが断念。60代で再度執筆を試み、また断念した。ただ、「70代になると、もう後がない。書くしかない」。当時の各国の置かれた状況と孔子の言動を心の中でつきあわせ、整理する作業を繰り返すうちに、聖人君子ではない、孔子の実像が見えてきた気がした。「どんなことでも知らないのが許せないくらい、勉強する人。一日も休んだことがなかったのではないか」

 作中では、儒教の主要な徳目、「仁」を、自分を迫害した故国の政治家、陽虎から学んだと描写される。「学ぶとは発明するのではなく、過去にあった事柄や言葉を受け入れること。下卑た言葉で言うと、孔子はパクったわけです」。ただ、それを自分の中で消化し、哲学的な用語として高めた。

 弟子たちを教えた私塾は当時はとても珍しく、就職を仲介する機能もあった。「弟子たちが貴族に仕官し、魯や諸国の政治を変えていくきっかけに、と考えていたのだろう」。死後数百年を経て、漢の時代には儒教が国教となった。日本でも朱子学として江戸時代、幕府に重んじられた。「孔子が目指したことは、結局実現した」

 戦乱が続く混乱の時代を生きた。「人と人、国と国との調和をつきつめた。人々が最も生きやすい方法を考えた」。そこには、弱者救済の発想があった。「どれだけ貧しい生活だとしても、学ぶことで心豊かに暮らせるという信念が弟子たちによく伝わっている。それは孔子が出現して初めてわかったこと。それまで、貧乏は不幸でつらいものでしかなかった」

 書き進めるうちに、孔子の弟子になったような心持ちがしたという。「後をついて行っているような感覚があった。もっと俯瞰(ふかん)して見なければいけないのだけれど、どうしても『先生』になってしまう。弟子に対する愛情も、学ぶ姿勢も見事なものだと思うとね」=朝日新聞2021年2月10日掲載