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「星の時」書評 哀れな少女の話をなぜ書くのか

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2021年05月22日
星の時 著者:福嶋伸洋 出版社:河出書房新社 ジャンル:小説

ISBN: 9784309208190
発売⽇: 2021/03/29
サイズ: 19cm/186p

「星の時」 [著]クラリッセ・リスペクトル

 視界不良の霧の中、案内人に手を取られゆっくり進むうち、周囲の状況がクリアになってくる――。小説にはまれにそんな読書体験こそが最大の面白さとなる作品がある。物語世界と自分が同期する感覚。本書を読む際に性急さは禁物で、語り手の饒舌(じょうぜつ)なお喋(しゃべ)りに気長につきあうのがいい。
 ロドリーゴという「ぼく」は作家で、いまある少女について記述を始めた。2歳で両親と死別し、叔母と荒野からリオデジャネイロに出てきた女の子。垢(あか)じみていて学がなく、ようようタイピストの仕事に就いたがクビ寸前、倹約が身上だ。「彼女はばかみたいに軽かったけれど、ばかではなかった。ただ自分が不幸であることを知らなかった」
 ロドリーゴの筆は、迂回(うかい)と脱線、自分語りを繰り返し、彼女の名がマカベーアだと明かされるのもしばらく後のこと。それでも話の中心は徐々に恋愛へ移る。北東部出身で同郷の匂いがする青年とは精肉店などでデートをし、マカベーアは有頂天に。しかし彼はばかにした態度を隠さない。「きみはスープに落ちた髪の毛みたいだ」と言い捨て、上昇志向ゆえ、マカベーアの同僚がハイクラスと見るや乗り換える始末だ。
 ついに不幸を知り、「悲しみも贅沢(ぜいたく)品だ」と考える哀れな少女のことを、ロドリーゴは慈しむように文章にする。なぜ彼は書くのか? 不実な恋への同情、あるいはブラジル社会の暗部の告発か。いやそんな思惑もどうやらなさそうだ。
 誰にも相手にされない貧相な少女の生を、いつまでも見守ること。彼女にこのあと起きる神の思(おぼ)し召(め)しは悲喜劇だ。彼は書く。すべては世界の残酷さと滑稽さを記録しておくために。
 ロドリーゴの作家としての目は著者自身のそれと重なるだろう。ブラジルのヴァージニア・ウルフとも呼ばれた著者は人間存在やその幸福について深い洞察を展開した。魔術的リアリズムと無縁のラテンアメリカ文学の魅力的な作家だ。
    ◇
Clarice Lispector 1920~77。作家。ウクライナ生まれ。ユダヤ人迫害から逃れ生後まもなくブラジルへ移住。