現代人は「成功物語」が大好きだ。才能と努力で道を切り拓(ひら)き、夢をつかむ。それが能力・成果主義(メリトクラシー)社会の理念であり、その平等と柔軟性は、封建的な階級制度の対岸にある民主主義社会の輝かしい証しではなかったか。しかし今、能力と成果の競争を煽(あお)る社会機構が深刻な格差と分断を生むと批判し、話題になっているのが、マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(鬼澤忍訳、早川書房)である。
本書は、宗教を起源としてメリトクラシーを説き起こす。誰かが幸福を得るならそれは篤信に対する神の祝福であり、災いは悪心への神の怒りだとする考えだ。運命にはその人の「善さ」が反映していると。
そこからメリット(成果)とデザート(応報)という図式が生まれ、やがて富は才能と努力のしるし、貧困は怠惰のしるしという見方につながっていく。
サンデルは米国が陥っている皮肉な事態をずばり突く。能力・成果主義に則(のっと)ったアメリカンドリームは「多様性」と「変化」への対応力をバネにしていたのに、1980年代に始まるグローバリゼーション政策とハイテク化でこれらが逆作用して、富裕層の固定化を促したという。高い専門知識や学位が求められ、熾烈(しれつ)な受験闘争で勝てるのは、潤沢な資金で「軍拡」できる家庭の子ばかりになってしまった。
日本にも当てはまる点は多い。サンデルが問題にする、「生まれ」という偶然性が人生を左右する社会構造や、「勝者の驕(おご)りと敗者の屈辱」については、ある猥褻(わいせつ)事件をモデルにした『彼女は頭が悪いから』(文春文庫)で、すでに姫野カオルコがまざまざと描いているではないか。「偏差値48」という女子大の学生に対する東大男子学生らによる非道な性暴行はなぜ起きたのか。それは一夜の出来事ではない。被害女性のブルーカラー職の両親のこと、東大生らの一流大学を出た父母のことから本書は丁寧に語り起こす。
功績で人の価値を決める社会のあり方自体を変えるべきだとサンデルは説くが、平野啓一郎の最新刊『本心』(文芸春秋)は、まさにメリットとデザートをめぐる物語として読めるだろう。舞台は、死ぬ時を選べる「自由死」が認められた近未来。高校中退の29歳の男性「朔也(さくや)」は、自由死を望んだシングルマザーの母の本心を知りたくて、死んだ母のAIを搭載したヴァーチャル・フィギュアを注文製作するのだが……。
母が自由死を望んだのは、自分は息子の重荷になってまで生きるに値しないと考えたからではないか。朔也はそんな疑念がぬぐえない。彼自身もある“功績”によって、裕福なアバター・デザイナーと友だちになるが、彼がよこす様々な“報酬”を、自分は受け取るに値するのか懊悩(おうのう)するのだ。友人はそんな彼に、「役に立つかどうかとか、お金を持ってるかどうかとかで、人の命の選別をしちゃいけないんです」と言う。
自由死が導入された現実社会を私は想像した。『本心』が他人事ではなく心を締めつけるのは、この制度が己のメリットとデザートを秤(はかり)にかける装置になるからだろう。自由死は多様な人生選択という仮面をかぶって到来し、弱者や高齢者を追いつめるものになりはしないか。サンデルの著によれば、近年のアメリカでは、非大卒男性の「絶望死」(自殺、薬物・酒類による死など)の数は大卒の3倍になっている。彼らを追いつめているのは貧困よりも自尊心の喪失だという。自由死と絶望死の間に、明確な境界は引けるだろうか。
チョ・ナムジュ『ミカンの味』(矢島暁子訳、朝日新聞出版)も、多様性の芽を摘むメリトクラシーと過酷な学歴社会に投げこまれる少女4人の抵抗を描いて衝撃的だった。父の事業失敗で一種のヤングケアラーになる子、陰湿ないじめに失神する子。家庭格差、進学目的の住所偽造、内申書の粉飾。彼女たちは青いままもがれて出荷されるミカンだ。もろくて強いシスターフッドよ。最後に冒頭場面に戻る倒叙法が効いている。本作は成功物語の正しさの限界を物語ってもいるだろう。
功績の規模に拘(かかわ)らず他者に敬意をもつという当たり前のことが、経済格差の是正と同じかそれ以上に必要だと思う。世界を股にかけるグローバル企業より地元商店のエッセンシャルワーカーの方が貢献に乏しいなどと間違っても言えないことを、今の私たちは知っているのだから。=朝日新聞2021年5月26日掲載