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津村記久子『サキの忘れ物』 偏りのない「平熱」の観察眼

 津村記久子は「平熱」の人である。自分を取り巻く物事や人間を偏りのない眼(め)で観察し、想像力の器で培養する。

 九つの短編の多くに、主人公が直面する現実を脱出するさまが描かれる。表題作の「サキの忘れ物」は、アルバイト先の喫茶店に客が忘れていったサキという作家の文庫本を、ふと読む気になった高校中退の女子の話だ。何がしたいかも分からず、曖昧(あいまい)に生きていた彼女の人生がその後どのように変わったのか。結末は短編の名手、サキの作品にも通じる鮮やかさだ。

 「隣のビル」では主人公が物理的な脱出を遂げる。働いているビルの隣に心惹(ひ)かれる建物があり、常務に怒られてくさくさしていたある日、そのビルの屋上の金網に手をかけて飛び移るのだ。恐ろしい冒険だが、結果が悪い方向に転がらなかったことに励まされ、それをステップボードに彼女は人生を変える決意をする。

 「行列」「河川敷のガゼル」などには寓話(ぐうわ)的な要素があるが、同時にノンフィクションの手触りを秘めているところがこの作家らしい。「行列」は、無料で「あれ」が見られるのに惹かれて出かけると、長い行列が出来ていて、様々な消費を促されるという話。「河川敷のガゼル」は、突然、町に現れた生き物が住人のアイドルになるという騒動を扱っている。主人公の行動が読者自身に重なるように親しみを込めて描かれており、俯瞰(ふかん)的な風刺画とはちがう。

 「真夜中をさまようゲームブック」は夜、疲れて家に帰り着くと鍵が見つからない、という日常に潜む不安が主題だが、物語の道筋を読み手自身が選択するゲーム形式の小説で、読者は能動性を発揮することになる。

 思えば、人生とは無意識に行われる選択の積み重ねにより成り立っているが、読み進むうちに、著者の柔らかな頭とよく物を観(み)る眼がこちらに乗り移り、選択の可能性に眼差(まなざ)しが開かれていく。絶体絶命の事態など、この世にないのだ。=朝日新聞2021年5月29日掲載

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 新潮社・1540円=5刷1万4千部。2020年6月刊。収録作が、今年の大学入学共通テストや私立麻布中学入試の国語の問題になったこともあり、じわじわと版を重ねた。