芦沢央さん「神の悪手」、心理あぶりだす棋譜や駒
作家・芦沢央(よう)さんの新刊『神の悪手』(新潮社)は将棋界を題材にした5編の短編集。ミステリーの手法をあれこれ使いながら、将棋に魅せられた人々の心理のあやを描いた快作だ。同時に、自らの作家人生を振り返る一冊にもなった。
「昔から奨励会に興味があったんです。年齢制限によって突然、夢を断ち切られる制度と知って。何か書きたいと思い、勉強し始めたらすっかり将棋界自体にはまってしまいました」
奨励会は将棋の棋士養成機関。原則、26歳までにプロ(四段)になれなければ退会となる。表題作はプロへの関門となる三段リーグ最終日前夜に始まる物語で、主人公が翌日の対局相手から渡された棋譜を前に、究極の選択を迫られる。
「夢を追い、夢に追われる怖さに関心がありました。私は高校生のときから文学賞に応募していて、12年目でデビューできた。でも、作家には年齢制限がないから、受賞できなくても夢をあきらめてなかったと思います。奨励会は制限があるぶん、夢にのみこまれる怖さが凝縮している」
表題作は、過去に同一手順がないという棋譜の特徴を利用したアリバイ作りの発想がユニークだ。ほかの4編も、タイトル戦で使う駒を巡る駒師の師弟の葛藤を描いた「恩返し」など、将棋ならではの場面や道具を使いながら、人間の深層に潜む心の揺れをあぶりだしていく。
なかでも異色作が「ミイラ」。物語早々に詰将棋の図面が載っている。将棋の心得がある人ならば簡単に解けるのだが、出題者が示す正解は将棋のルールを逸脱したかのような奇妙な手順だった。その意図は?
「詰将棋ってただのパズルと思っていたのですが、専門の方への取材で、作者の意図を読みとることで世界観を共有する物語的なものだと知りました。作家と読者が小説を通して気持ちを通じあえるように。ならば詰将棋を使い、孤独を抱える人に手をさしのべるような対話の物語ができるのではないかと思ったんです」
5編の物語は1998年から2019年にわたる時の流れの中に点在しており、背景世界を共有している。
「書く前に年表を作っています。ある物語で天才と騒がれた棋士が、別の物語では長いスランプの中にいたりする。1局の勝負だけでなく、長い人生のなかで運命に翻弄(ほんろう)される人たちの姿をまだまだ書きたい。将棋界を知れば知るほど、テーマが次々に出てくるんです」
「奨励会」に注目、退会者や女性の物語も
近年の将棋小説では、奨励会が物語の鍵として取り上げられることが多い。全国の天才たちがしのぎを削る棋士養成機関。プロ(四段)になるためには、原則として、年2回半年にわたって争われる三段リーグで上位2人に入らなければならず、26歳までという年齢制限もある狭き門だ。
奨励会の厳しさを描いた文芸作品の白眉(はくび)は『将棋の子』(大崎善生、2001年)だろう。著者が日本将棋連盟職員時代に接した奨励会退会者のその後を追ったノンフィクション。将棋漬けの日々を断ち切られ、社会に投げ出された若者たちの姿は哀切極まるが、著者の視線はやさしい。
夢破れた奨励会員の姿や心情を描いた小説は多い。特別ルールで三段リーグ編入を目指す33歳の男と新聞記者の交流を描いた『盤上のアルファ』(塩田武士、11年)、事件現場に残された将棋駒の謎をかつて棋士を目指した刑事が追うミステリー『盤上の向日葵(ひまわり)』(柚月裕子、17年)……。
奨励会を突破して棋士になった女性がいない現状に触発された物語が『盤上に君はもういない』(綾崎隼〈あやさきしゅん〉、20年)。大棋士を祖父に持つ天才少女・飛鳥と、病弱ながらも三段リーグで奮闘する年齢制限間近の夕妃、対照的な2人が史上初の女性棋士を目指す。さらには奨励会受験のため研鑽(けんさん)を積む「研修会」に集う子供たちを取り巻く人々を描いた『駒音高く』(佐川光晴、19年)もある。
百花繚乱(りょうらん)ともいえる将棋小説だが、約四半世紀前の羽生善治九段の七冠フィーバーの際には、これほどではなかった。「ネット中継などを通じて、スポーツのように将棋を観戦する人が増え、より将棋界への興味が高まった結果ではないでしょうか」と話すのは、小説誌「オール読物」で今年はじめに将棋特集を組んだ川田未穂編集長。「スポーツ、特に団体競技は登場人物一人ひとりを描き分けるだけでもたいへんです。将棋は一対一の頭脳戦。心理描写をじっくり描ける小説に適した題材です」
将棋がメディアで取り上げられることが増えたとはいえ、棋士になるまでは対局者たちの肉声が伝わることはほとんどない。その空白に小説家の腕のふるいどころがある。=朝日新聞2021年6月23日掲載