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「硝子戸のうちそと」/「人間であることをやめるな」 表現者の業 問うて答える二人 朝日新聞書評から

評者: 保阪正康 / 朝⽇新聞掲載:2021年07月03日
硝子戸のうちそと 著者:半藤 末利子 出版社:講談社 ジャンル:エッセイ

ISBN: 9784065235515
発売⽇: 2021/04/28
サイズ: 19cm/267p

人間であることをやめるな 著者:半藤 一利 出版社:講談社 ジャンル:エッセイ

ISBN: 9784065235522
発売⽇: 2021/04/28
サイズ: 19cm/153p

「硝子戸のうちそと」 [著]半藤末利子/「人間であることをやめるな」 [著]半藤一利

 半藤末利子のエッセーの書名は、祖父夏目漱石の『硝子戸の中(うち)』を意識している。祖母鏡子(漱石の妻)のこと、一族の素顔、それに夫・半藤一利と病、さらに近在の人たちとの交遊など著者の目に映る光景が描かれる。文体にこもっている感情が率直である分、共鳴、共感の波が読む側の心中にリズムを作ってくれる。
 すでに文体になじんでいる読者もいるだろうが、今回の書は、半藤の病、そして死に至る状況が語られていて、胸が詰まる思いもする。「夫は自分の死が近いことを予期していたと思う」「彼は夫としては優等生であった。あんなに私を大切にして愛してくれた人はいない」と書くほど、二人の間には畏敬(いけい)の念が通い合っていた。
 私は半藤一利とは何度も対談や座談会をした。そういう折に半藤は、「昨日、枕辺に山本五十六が立って、お前の書くのは当たっている、と言われた」などと言うことがあった。私にも経験がある。ある人物の評伝を書いていて、毎日彼の人生について考えていると仕事部屋の一角にその人が立っているような錯覚を起こすことがある。集中すると、信仰や宗教などに関心が薄いにもかかわらず、起こりうるように思う。半藤のその時の様子について著者は生々しく書いているが、そういう体験の描写も本書の読みどころである。
 半藤が最期の言葉として、「墨子(古代中国の非戦論者)を読みなさい」と伝えたのは、半藤史観を象徴する言である。それは夫人の口を通して、自分の読者に伝えてほしいとの遺言でもあった。この書はその役割を果たしている。
 同時に、繰り返すことになるのだが、著者の語るエピソードや出来事の中に垣間見えるのは、作家の業とも言うべき側面である。祖母鏡子から見た漱石、母筆子から見た松岡譲、そして著者から見た半藤と、三代にわたりそれぞれの時代と関わった女性の目から見る作家の業が語られている。鏡子夫人の描写の中に、漱石の作家としての苦しみが宿っていることを知ると、近現代史の中の作家の懊悩(おうのう)の深さに触れ、私たちは作家は一人で存在するわけではないという当たり前の事実を確認することにもなる。
 半藤著は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を半藤の目で解剖してこの書の読み解きを語っている。そして石橋湛山の卓見などを縦横に語りながら、史実の本質は細部に宿るという持論を披瀝(ひれき)している。しかしこの半藤の書が、自らを含めて持論を守り抜く、すなわち「表現者の業」を守る作家の強靱(きょうじん)さを問うていることに気がつくと、半藤夫妻の二書は意外にも設問と答えの対になっていると言えるのではないか、と思う。
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はんどう・まりこ 1935年生まれ。エッセイスト。著書に『夏目家の糠(ぬか)みそ』など▽はんどう・かずとし 1930~2021。作家。著書に『日本のいちばん長い日 決定版』『ノモンハンの夏』など。