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「声をあげます」書評 どんな世界でも捨てきれない愛

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2021年07月24日
声をあげます (チョン・セランの本) 著者:チョン セラン 出版社:亜紀書房 ジャンル:小説

ISBN: 9784750516981
発売⽇: 2021/06/16
サイズ: 19cm/277p

「声をあげます」 [著]チョン・セラン

 右手の人差し指だけがタイムトラベルで過去に消えてしまう子を好きになった女の子。自分の声に覚醒効果があり教え子たちが次々に殺人を起こしてしまうという理由から、声帯除去手術か収容所生活かの選択を迫られた教師が繰り広げるカラオケ三昧(ざんまい)の収容所生活。ツナ缶で飢えを凌(しの)ぎながら、屋上から一日に一ゾンビ弓で射抜くことを日課とし、オリンピック出場を夢見るアーチェリー選手。
 どの短編も読み始めてすぐ「こんな無理のある設定を……?」とほとんど嘆きに近い思いを抱いたが、どの設定もすぐ肌に馴染(なじ)み、いかに凄惨(せいさん)な世界が描かれていても、そこから出るのが辛(つら)くなるほどだった。これらの設定が上滑りしないのは、理不尽かつ不可解な世界の根拠に「現代の我々が容認している害悪」が据えられ、その上で著者が「人間そのもの」を描いているからだ。
 例えば、三時間だけ全てを記憶できる薬が開発された世界を描いた「小さな空色の錠剤」では、「初恋の成就率はちょっと上がった。恋が冷めるのはたいてい、大切な瞬間を忘れてお互いをぞんざいに扱いだすせいだが、今やそれは忘れられない記憶によって維持されるようになった」とあり、同時に拷問技術者は「同じ苦痛でも、忘れられないようにしたらどうなるか?」と考え、永遠に忘れられない拷問の効果を調査する。著者は自分が作り上げた世界を裸足で駆け回り、人々に根付くユーモアや憎めなさ、どんな世界でも人々が捨てきれない愛をその目で確認し、書き留めてきたかのようだ。
 まるでSFのような現代を生きる全人類に捧げたい短編集だ。理不尽が横行し個人の声が搔(か)き消され、システムや世論やルールは忙(せわ)しなく変化し、自分一人の正しさを手探りで追求しなければならない私たちの孤独を、おぞましくも愛(いと)おしい、いつか起こり得る八つの物語はほんの少し癒(いや)してくれるだろう。
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Chung Serang 1984年、ソウル生まれ。作家。『保健室のアン・ウニョン先生』『屋上で会いましょう』など。